雨に濡れれば………
「雨が振るなんて、言ってなかったじゃない………」
大粒の雨を落とす暗い空を見上げながら、せつなは恨めしそうに言った。昼食時に食堂で見たテレビの天気予報では、今夜は雨は降らないはずだったのだ。
セーラープルートとして、あの不定形生物を倒したあと、天文台に戻ったせつなは、別の意味で驚かされてしまった。だれひとり、あの生物を見た者がいなかったのだ。不定形生物を倒すと、計器類の異常ももとに戻ったらしく、プルートが天文台の上空で小男と対峙していたころには、全員何事もなかったように、普段の仕事を始めていたというのだ。
何事もなかったように雑務をこなしている仲間たちを見たとき、せつなは狐に摘まれたような気分になったが、それはそれで、かえってよかったかもしれないと思った。知らないですむなら、知らないままの方がいいことだってある。
だからせつなも、何事もなかったかのように、通常の職務に就いていた。
五時をまわった頃、キリのいいところで仕事を終わりにし、翔に一言言って、朝方ほたると約束した通り、今日はアパートに帰ることにした。
「まったく、あてにならないわねぇ………」
せつなはひとり、毒づいた。これでは帰る気が失せてしまう。せつなは、傘を持ってはいなかった。今更だれかに傘を借りるというのも、少々面倒くさかった。
「車を買った方がいいんじゃない?」
東京湾天文台に勤めているせつなが、T・A女学院に通うほたるのために、十番街にアパートを借りたとき、ほたるが言ったものだった。
電車とバスの通勤では時間がかかりすぎてしまうし、残業のため、終電がなくなってしまい、結局はアパートに帰れないということが多かったからだ。必然的に、せつなは天文台に泊まる回数が多くなってしまった。幸い天文台には、仮眠室もあればシャワールームもある。下着の替えは、車で十分程走ったところのコンビニで調達してくればよかったので、泊まり込みになっても、それほど不便ではなかった。難を言えば、その唯一のコンビニが、夜の十一時に閉まってしまうことぐらいだった。
しかし、若い女性が数日仕事先で寝泊まりするということに、問題がないわけでもなかった。男どもがなにかと差し入れをしてくれるのだが、下心が見え見えなのである。研究熱心のあまり、女性経験の極度に少ない男性諸君の多い職場にあって、美人の上に「超」をつけても決してオーバーな表現ではないせつなが、深夜彼らの身近にいるということは、刺激が強すぎるのである。アダルトビデオに感化された男性があまりにも多いのが、難点と言えば難点だった。
「うちの男どもは、送りオオカミが多いから、気を付けた方がいいよ」
食堂のおばさんが、こっそりとせつなに耳打ちしてくれたものだ。
「………どうしようかしらね………」
雨足は衰えるどころか、ますます激しさを増してくる。せつなは恨めしそうに暗い空を見上げると、ぽつりと呟いた。にわか雨なのだろうが、一向に止む気配がない。
今日は帰ると、ほたるに約束をしてしまった手前、帰らないというわけにはいかない。それに、自分の知らないところで、何やら事件が起こっているらしい。もしかすると、朝方に出会した、あのフードの小男と関係があるかもしれない。
「仕方がないか………」
せつなは意を決して、雨の中をバス停まで走ることにした。
少し走っただけで、体がびしょびしょになってしまった。長い髪が、ひどくうっとおしい。水分を吸って、非常に重たくなる。
バス停に着いた頃には、下着までびしょ濡れになってしまっていた。
バスの時刻表と、自分の腕時計を交互に見た。つくづく、自分は不幸な女だと思ってしまう。バスは五分前に通過してしまっている。この次のバス来るまでは、あと約一時間も待たなければならない。しかも、そのバスが今日の最終バスである。
下手に最終が残っているぶん、せつなはやはり不幸だった。最終がなければ、バスを諦めることだってできる。他の手段を考えることもできた。だが、一時間待てばバスが来ると分かっている以上、ここは待たねばならないとも思う。
「最悪だわ………」
呪いの言葉を吐いて、空を見上げる。心なしか、雨足が強くなっているように感じられる。
こうなれば、ヤケである。次のバスまで待ってやろうと考えた。プレハブの待合い小屋があるから、そこで待っているしかない。天文台に戻って、時間をつぶしている間に次のバスに乗り遅れたら、それこそ洒落にならない。
雨が降り、気温が下がったせいか、どことなく肌寒い。雨に濡れてしまったせいもあるのだろう。徹夜続きで少々体調を崩しかけているため、これで間違いなく風邪をひいてしまうだろうと思う。
「不幸だわ………」
声に出して呟く。ここまで不幸だと、神様まで呪いたくなる。
プップッー。
クラクションが突然鳴った。せつなはドキリとして目を向ける。
スポーツカータイプの逆輸入車である。
左の座席から、若い男がこちらを見ている。
「都内に戻るのなら、乗せていってあげるよ」
パワー・ウインドゥを僅かに下げて、若い男は声をかけてきた。二十代前半の男性である。自分と同じか、少し年上といったところだろうか。
「いえ、けっこうです」
こんなところを走っているのだから、天文台に関係のある人物だと思うが、知らない顔だった。いくら困っているからといって、見ず知らずの男の車に簡単に乗ってしまうほど、せつなは軽薄ではない。
「………でも、風邪をひいてしまうよ………」
「けっこうです」
冷たい口調で断ると、せつなはプイと横を向いてしまった。そこまですれば、たいていは諦めてしまうはずである。
バタン。
ドアが開く音がした。何事かと、顔を正面に戻すと、車から降りた青年が、傘を差して自分の前に立っていた。
「俺って、そんなに遊び人に見えるかなぁ………」
困ったように笑うと、せつなに傘を差し出す。
「じゃあ、キミが運転すればいいよ。それならば、問題はないだろう? 俺だって死にたくはないから、運転しているキミを襲ったりはしないよ」
そう言って、ウインクをしてみせた。
新手のナンパの手口かと思われたが、その青年の実直そうな瞳からは、下心は感じ取れなかった。本当に、親切で言ってくれているのだと分かる。
せつなはくすりと小さく笑う。
「ありがとうございます。でも、車のシートが濡れてしまいますよ。ですから、遠慮させていただきます」
せつなは険しい表情から一転して、柔らかな笑みを浮かべた。青年にも、どうやらせつなの心の変化は伝わったようだった。安心したように微笑む。自分に対する誤解が解けて、嬉しそうであった。
「中にTシャツがございます。ドレスでなくて申し訳ありませんが、もしよろしければ、そちらにお召し替えになってください」
劇のように大袈裟なたち振る舞いで言うと、照れくさそうな笑みを浮かべた。
その青年のわざとらしい演技に、せつなは笑みをこぼした。
「本当に、いいんですか?」
「もちろん。………あ! そうだ………」
青年はせつなに傘を持たせると、自分は車の後部へ回り込み、トランクを開けると、買って間もないとおもわれるタオルを取り出してきた。
「俺は向こうを向いてるから、中で着替えちゃいなよ。いくらなんでも、風邪をひいちまうぜ」
タオルをせつなに渡すと、車に押し込み、自分は車の外で傘を差してそっぽを向いた。
せつなは「おかしなヒトだ」と思いながらも、車の後部座席で器用にも着替えを始めた。せつなが着替え出すと間もなく、車のガラスが全て曇ってしまった。外の青年は、こっそり覗こうにも、これではもう見えない。二‐三日前にコンビニで買った替えの下着があることを思い出したせつなは、しっかりと下着まで取り替えて、気分をリフレッシュさせた。青年のTシャツは、これも買ったばかりのもののようだった。もしかすると、本人はまだ一度も袖を通していないかもしれなかった。せつなにとっては、いささか大きめのシャツであったため、普通に着ているだけでも、腿くらいまでは覆うことができた。これでタオルを巻けば、膝までは隠すことができる。
着替え終わったせつなは、後部座席からこれまた起用に助手席へと移動すると、運転席側のパワーウインドゥを開け、青年を呼んだ。
「運転はお願いします」
この青年は、信用できると思った。
青年も、せつながそう言ってくれるのと思っていたのだろう。躊躇うことなく、運転席へと腰を下ろした。
「お望みなら、足を見せるくらいのサービスはいたしますよ」
借りたタオルで髪を拭きながら、せつなは悪女のような視線を向けた。
「遠慮しておくよ。いや、断る方が失礼かな?」
少年のように照れた笑いを浮かべながら、アクセルを吹かした。
笑いながらもチラリとせつなの足に目が行ってしまうのは、男の悲しい性であった。その自分の視線がせつなにバレてしまっていることに気付き、青年は再び照れ笑いをする。
「自信、なくなってきたな………」
後悔したようなその呟きは、せつなには聞こえなかったようだ。
「え………と、じゃ、自己紹介をしようか………。俺は大道寺潤人。仲間内では、D・Jって呼ばれてるよ」
「D・J? ディスクジョッキーの仕事でもしていんですか?」
「別に、そういうわけじゃない。大道寺のDと潤人のJで、D・J。簡単だろ?」
青年はチラリとせつなを見ると、白い歯を見せた。
「あたしは、冥王せつなといいます」
にこりと微笑んで、せつなは名乗った。
「天文台のヒトだよね」
「ええ。大道寺さんは?」
「D・Jでいいよ。俺はね、私立探偵なんだ」
「え?」
「信じてないな………」
大道寺は言うと、自分のジャケットから名刺を一枚取り出して、せつなに渡した。
「大道寺探偵事務所 代表 大道寺潤人」と書かれてあった。
「探偵事務所の所長さんですか?」
「そんなご大層なモンじゃないよ。所員は俺ひとりだから………」
大道寺は、笑いながら肩を竦める仕草をする。
「その探偵さんが、天文台に何の用があったんですか?」
「企業秘密なんだ。悪いけど、教えらんないな」
不思議そうな表情をするせつなの顔をちらりと見ると、大道寺は「にかっ」と笑った。
「依頼人のプライバシーを守るってやつですか?」
「ま、そう言うこと」
車は高速道路へと乗る。雨は小降りになっていた。
「都内のどの辺?」
「麻布十番なんですけど………」
「そりゃあ、ちょうどよかった。俺は、元麻布に住んでるんだ。事務所も元麻布にある。偶然というのは、恐ろしいな」
首都高速道路は、珍しく空いていた。芝公園の出口を降り、桜田通りを越え、一ノ橋の横の信号で停止する。
「その格好だと外は歩けないだろう。家の前まで送っていくよ」
信号が青に変わると、大道寺はアクセルを踏み込む。
アパートの前に着く頃には、雨はすっかりやんでいた。
「本当に、ありがとうございました。Tシャツは、すぐに返しに伺いますので」
「いつでもいいよ。じゃ!」
大道寺の車は、するりと走り出した。
せつなはしばらく車を見送った。
「なんて、格好してるんですか? せつなさん………」
「え!?」
慌てて振り向くと、びっくりとたような表情のまことが立っていた。スーパーのビニール袋を持っている。夕食の買い物でもしてきたのだろう。まことのアパートは、せつなたちのアパートのすぐ近くにあった。いくら大きめの物だからといって、Tシャツ一枚で路地に立ち尽くしている姿を見れば、誰だって不思議に思うだろう。
「あ、いえ。服が濡れちゃったもんだから………」
ひどくどきまぎして答えている自分が、全くの他人のように思えた。どうしてこうも、ドキドキしてしまうのかと思う。
「さっきのヒト。カレシですか?」
どうやらまことは、せつなが車から降りてきたところ辺りから見ていたらしい。
「え!? あ、いや、そんなんじゃないのよっ!! ただ、送ってもらっただけで………」
答えるせつなの頬は、僅かに赤らんでいた。