東京湾天文台
カモメの鳴き声が、目覚まし時計のベルのように、耳に伝わってきた。さざ波の音が、耳に心地よい。
朦朧とした意識の中、せつなは顔を上げた。
三時まで起きていたことは覚えているが、そのあとの記憶がない。レポートも途中のまま、デスクでうたた寝をしてしまったようだ。パソコンのワープロソフトの画面のカーソルが、チカチカと点滅している。みかん星人のスクリーンセイバーがインストールしてあるはずなのだが、うたた寝をしている間も、マウスにだけは触れていたようだ。
腕時計を見る。間もなく、六時半になろうとしていた。
宇宙開拓事業団の東京湾天文台に泊まり込んでから、そろそろ一ヶ月になる。気が付いてみたら、一ヶ月経っていたいう感じで、あまりにもの忙しさのために、時間の経過が麻痺していた。いいかげん、十番街の自分のアパートに帰りたいと思う。中学三年のほたるを、ひとりにしておくのもよくない。(とは言っても、もう一ヶ月もひとりにさせてはいるが………)いくらしっかりしているとはいえ、まだ中学三年生なのである。世間的には、まだ子供なのだ。それなのに、一ヶ月もひとりで生活させてしまった。母親代わり失格であると思う。
せつなは椅子に腰を下ろしたまま、デスクの上に無造作に置かれているコードレスホンの子機を手に取り、ダイアルをプッシュした。この時間なら、もう起きているだろうと思う。
「はい。冥王です」
元気のいい、ほたるの声が、受話器のスピーカーから流れてくる。
久しぶりにほたるの声を聞いたせつなは、知らず知らずのうちに微笑んでいた。声を聞くのも一週間ぶりくらいだ。
「起きてた?」
「せつな姉さん!? どうしたの? いったい、いつまで天文台にいる気よ! 天文台に、住み着くつもり?」
矢継ぎ早に、ほたるの質問が飛んでくる。
「ごめん。今日は帰るようにするから………」
低い声で、せつなは答える。
「一週間前も、そんなこと言ってたわよ!」
「大丈夫。今日こそは帰るから………」
「本当ね? たまには家に帰ってきてゆっくり休まないと、体壊すわよ。もう、若くないんだからね………」
「聞き捨てならないないわね。あたしだって、充分若いわよ!」
ほたるに若くないと言われれば、少しはムキになってしまう。まあ、二十歳を越えてしまえば、十代の女の子に若くないと言われても仕方のないご時世である。
「はい、はい、はい」
ほたるは軽く受け流す。
「じゃ、お夕飯作っとくから、ちゃんと帰ってきてよ。話したいこともあるし………」
「話? 電話じゃできないの?」
「“クラウン”じゃないと、できない話よ」
ほたるの言う“クラウン”とは、ゲームセンターのことではない。その地下の司令室のことを言っているのだ。
「………なにか、あったのね?」
せつなの表情が曇る。“クラウン”でしかできない話というなら、恐らくそれは事件である。実際に“クラウン”でなければ話せないと言うわけではなく、話そうと思えばこの場でだって話すことはできるだろう。
「あ、そうか。戒厳令が敷かれてるらしいから、マスコミも迂闊には報道できないのね」
「それほどの事件なの?」
「帰ってきたら話すわ」
ほたるは詳細を話そうとはしない。余程せつなに家に帰ってきて欲しいのだろう。急を要することなら、いくらなんでも直ぐに話すだろうとは思うから、ほたるがこの場で話さないのなら、本当に家に帰ってからでもいいことなのだろう。しかし、「帰れ」と言うからには、重大な事件が起こったことは間違いないのだろう。戒厳令が敷かれていると言うのならば、尚更だ。
「分かった。必ず帰るから」
せつなは了解した。
「じゃ、遅くなってもいいから、ちゃんと帰ってきてね。せつなママ!」
「もう! その呼び方はやめてって言ったでしょう?」
「ごめんなさーい!」
笑い混じり謝るほたるの声を最後に、プツリと電話は途切れた。深刻な話のはずなのに、終わりがこれでは思わず笑みが零れてしまう。せつなが事件の内容のことで考え込まないように、ほたるが気を遣ったのだ。
せつなは子機をデスクの上に置くと、席を立った。軽く伸びをすると、少し気分がすっきりしてきた。
窓を開け、海からの潮の香りを胸一杯に吸い込むと、今日も一日頑張ろうと気合いが入る。
とにかく今日は仕事にケリを付け、家に戻らなければならないと思った。すぐにでも仕事を再開しなければならない。
自分の他にも泊まり込んでいる者が何人かいるはずだが、今どうしているだろうかなどと考えたりもした。あと、二時間もすれば、通常に出勤してくる者たちとも出会すだろう。
せつなは洗面所で顔を洗うと、軽くメイクをした。徹夜続きで、多少肌が荒れてしまっていると感じる。メイクののりも悪い。目の下に、うっすらと隈ができていることに、うんざりとせずにはいられなかった。
もう一寝入りしたかったが、そうもいっていられない。
専用に与えられている研究室を出て、観測室に向かった。そこに、何人かの徹夜組がいるはずだった。せつなのチームのメンバーだった。
乱れていた白衣の襟元を正して、観測室に足を踏み入れた。
「あれ? せつなちゃん、もしかして、きのうも帰らなかったの?」
缶コーヒーを片手に、窓から見える太平洋の海を眺めていた、宇宙翔が声をかけてきた。
「宇宙さんこそ、帰らないとまずいんじゃないですか? 奥さん、心配してますよ」
「ああ………。さっき電話を入れたら、怒鳴られたよ」
翔は頭を掻きながら、苦笑する。
「まったく、子供がふたりいるみたいだと言ってるよ」
「お子さん、航( くんでしたっけ?」)
「ああ、そろそろ二歳になるよ」
息子の話をするときの翔は、本当に楽しそうな顔をする。嬉しくてたまらないのだろう。
「レポートの方はどう?」
「殆どできています。ですから、今日は帰ろうかと思います」
「悪いね、手伝わせちゃって」
すまなそうな顔をする翔は、せつなのいるチームの責任者でもあった。
「………いいえ」
せつなはかぶりを振る。
「世紀の大発見ですからね。あたしもお手伝いができて、光栄に思っています」
「仮説でしかなかったからな。でも、実際に水星の内側にもうひとつ惑星を発見したときは、正直言って、ホント驚いたよ」
翔は、少し興奮気味に言った。
「日食の時以外、発見することが不可能だと言われていた幻の惑星………。幸運だったな………」
翔は上ってくる朝陽を、眩しそうに見つめた。
研究室に戻ったせつなは、備え付けのバスルームに入ると、シャワーを浴びた。
心も体もさっぱりすると、急に食欲がでてきた。普段は朝食をとらないせつなも、こう徹夜が続くと、しっかりと健康管理をしなければ、かえって他のメンバーに迷惑がかかる。三度の食事は、しっかりと取り、なおかつ栄養のバランスにも気を配らなければならなかった。
せつなの朝食は、サラダを食べる程度のものだったが、それでも食堂のおばさんは、せつなのために特別のサラダを用意してくれる。せつなを見て、自分の若い頃によく似ているというおばさんは、そう言われてもとても嬉しくない体型をしていた。おばさん曰く、昔は痩せていたのだそうだ。
海がよく見える窓際の席で、おばさん特製のサラダを食べていたせつなに、翔が同席を求めてきた。翔の大学時代の後輩だという、赤城吾郎という青年も一緒だった。赤城はせつなたちとは別のチームに所属しているため、せつなとはあまり親しくはなかった。顔を見たことがあるという程度だった。
「こいつ、せつなちゃんに、気があるみたいなんだ」
焼き魚をおかずに朝食を食べながら、翔はせつなに、赤城をこう紹介した。
赤城は慌てて否定していたが、顔は真っ赤になっていた。本当に、自分に気があるのではないかと思う。
眼鏡を掛けているので、一見まじめそうに見えるのだが、その実は、けっこう遊び人なのだと、朝食のあと、せつなたちの話を聞いていたらしい同僚の相田恭子が、そのあとこっそりと忠告してくれた。
まん丸の眼鏡を掛けている恭子は、かなりの童顔だった。セーラー服を着れば、充分高校生として通用する。小柄な彼女であったから、高校生の頃は、よく小学生と間違われたらしい。その彼女も、赤城にデートに誘われた口のようだ。天文台にいる女の子という女の子に、声をかけているという、もっぱらの噂だそうだ。恭子も同じ部署の先輩に忠告され、デートは当日にキャンセルしたということだった。
異変は突然やってきた。
朝食を食べ、一息ついていたときである。
天文台の計器類が、全て狂った。使用不能に陥ったのである。計器という計器、いや、機械という機械に異常が見受けられた。テレビも写らなければ、電話も使えない。ありとあらゆる機械が、使用不能になってしまった。
天文台は、正に陸の孤島状態だった。
「なにがあったの?」
せつなは、近くにいた観測員に訊いてみた。
「分からない!! いったい、何がどうしちまったのか………」
答える観測員の声は上擦っていた。そのまま、どこかへと走り去ってしまった。
「………!!」
せつなの感覚が、何事かの異変を捕らえた。
ビリビリと肌が痛む。
「門( が開いた!? 何かがこっちの世界に侵入してくる!?」)
直感だった。
何者かが、強制的に異空間とのゲートを開いた。ゲートを通って、何かがこの世界に侵入して来ようとしている。
悪寒が走った。背筋が凍るような、もの凄い妖気を感じる。
この妖気は危険だ。
せつなは天文台の外に出た。外は、異様な空気に包まれている。
「………!!」
空間が揺れた。遅かった。何かが侵入してしまった。
「プルート・クリスタル・パワー! メイク・アッープ!!」
侵入者を捜さなければならない。素早くガーネット・ロッドを実体化させた。
ガーネット・オーブの力を使って、まわりを索敵した。
天文台に異変が起こったということは、ゲートはこの近くに開いたということになる。
オーブがゲートのポイントを特定する。
天文台の裏手、陸側の方だ。
プルートは天文台の海側にある正面玄関から外にでたから、ちょうど反対側だった。
ジャンプした。
一気に天文台を飛び越える。
グバッ!!
衝撃波がきた。突然のことに、躱( す間がなかった。ガードするのが、精一杯だった。モロに食らって、海上まで弾き飛ばされる。)
体勢を立て直し、天文台を凝視した。
異形の生物がそこにいた。なんとも、形容しがたい生物だった。その全長は特定できないが、明らかに天文台よりも大きい。幾つもあるクラゲのような足が、今にも天文台を捕らえようとしている。体と思われる楕円形の部分は、絶えず波打っていて、どちらかと言えば、不定形生物に近い。目だと確認できるものはなく、体の上の部分から何本か触覚のようなものが突き出ている。巨大な口らしき部分は、がばりと開き、涎のようなものを垂れ流していた。その涎は強酸なのだろうか、地面に落ちる度に、しゅうしゅうと煙を上げている。
“ヴーゥ。ヴーゥ”
低く、不気味な音が聞こえる。
聞こえると言っても、耳から通して聞こえるわけではない。直接脳に届いてくるような感じだ。精神波に近いものなのだろう。この生物の鳴き声だろうか。
ガーネット・オーブをロッドに装着し、プルートは臨戦態勢を取った。
「破滅喘鳴( !!」)
とにかく、天文台から生物の注意を逸らさなければならない。プルートは、破滅喘鳴( を三連発して、生物を引き離そうとする。しかし、ぶよぶよしたその生物の体は、破滅喘鳴) ( を吸収してしまう。)
天文台内部にいる翔たちも、そろそろ生物の存在に気付いているころだろう。だが、今から逃げ出したとしても、もはや手遅れである。外に出る方がかえって危険だ。不定形生物の標的になる可能性がある。
プルートは身を踊らせ、天文台のドーム状の屋根の上に飛び乗った。不定形生物が、目の前にいる。
“ヴーゥ”
一声鳴き、その巨大な口をプルートに向ける。
フォォォォ………。
不定形生物は、プルートに向け息を吐き出す。
「う………」
もの凄い異臭を伴った、熱い息( である。すんでのところで熱い息) ( はかわしたが、猛烈な異臭が鼻をついた。吐き気をもよおした。麻痺) ( の作用もある息) ( のようだった。僅かの間、全身が激しく痙攣) ( した。直撃を受けていたら、完全に体の自由を奪われていただろう。長期戦は不利だと思われた。)
プルートは不定形生物の真上に陣取ると、キッと睨み据えた。最大級の技をもって、一気にカタを付けようと、パワーを集中する。
「時空封鎖( !!」)
時空の壁を出現させ、生物のまわりを囲み、通常空間から隔離する。封鎖された空間の中で何が起ころうとも、時空封鎖( で隔離してしまえば、通常空間には全く影響が出ない。そうしなければ、この技は危険すぎて地球上では使えないのだ。)
「デス・スペース・イヴァポレイション!!」
空間そのものを、凄まじいエネルギーで崩壊させるプルートの最大級の必殺技である。さしもの異形の不定形生物も、これにはひとたまりもなかった。瞬時に塵となって消滅する。
「魔界の生物を倒すとは、おぬし、何者じゃ?」
ふっと息をついたプルートの背後で、しわがれた声が響く。
異形の生物ばかりに気を取られ、まわりを全く気にしていなかった、プルートにしては珍しいミスだった。
プルートは覚悟を決めた。あっさりと背後を取られてしまった、自分の負けである。
死を覚悟した。
だが、相手は、プルートの意に反して、攻撃をしてこなかった。そればかりか、プルートに振り向く時間も与えてくれた。
頭からボロボロの薄汚れたフードを被った、小男がそこにいた。身長は、プルートの腰ぐらいまでしかない。先程の声から察すると、かなりの高齢者だと思われた。
(ワイズマン!?)
プルートは仰天したが、すぐに違うと分かった。物語の中に登場する魔法使いのイメージが、そのままそっくり当てはまるような風体をしている。フードに隠されて顔の全体像を見ることはできないが、特徴ある見事な鷲鼻だけがやけに目立って見えた。
「ほお………。これまた、随分と美しい娘さんじゃて………」
口調はかなり優しいものだったが、それに反してフードの中の目は、鋭い光を放っていた。プルートを捕らえ、ギロリと動いたようだった。
「あなたなの!? あんなものを召還したのは………!?」
プルートは油断なく身構えている。とぼけてはいるが、最初の衝撃波を放ったのは、おそらくこの小男だ。
「おお! そういえば、こんな格好をしたおなごに、うちの馬鹿がふたりも倒されおったな………」
小男はプルートの質問には答えず、そのぎらぎらした目で、プルートを上から下まで舐め回すように見ている。
「あのおなごは、お前さんの仲間かえ?」
「だれのことを言ってるの?」
「ほう………。知らんか………」
そう言うとフードの小男は、プルートにくるりと背を向けた。
「………さてと、実験は失敗じゃ………。出直すとするかの………」
ちらりとプルートを振り向く。フードの中の瞳が、上目遣いでプルートを見上げる。
「どうじゃ、おまえさん。わしの嫁にならんか?」
「な………」
突拍子もないことだったので、プルートは絶句してしまった。目をまん丸にして、小男を見てしまった。
「ふぉっ、ふおっ、ふおっ」
小男は愉快そうに笑う。呆気に取られているプルートの顔を見てるそく瞳は、さも満足そうである。
「今度会うときまでに、考えといておくれ………」
フードの小男は一方的に言うと、唖然としているプルートを尻目に、霧のように消えてしまった。