もなか
ぴよぴよぴよぴよ………。
電子音が鳴り響く。
爽やかな朝のひとときの静寂を破るように、けたたましい合成音が流れる。
ばしっ。
こうるさい、電子音を発する「それ」を、ぬっと伸びてきた手が払いのける。これしきのことで負けるわけにはいかないと、「それ」は健気にも、弾き飛ばされた床の上で、なおかつ電子音を発していた。
ぴよぴよぴよぴよ………。
「それ」は、ひよこの形をした目覚まし時計だった。床にひっくり返った状態でも、一生懸命ご主人様の目を覚まさせようと、必死にがんばっている。
「うるさいなぁ………」
そんな健気な目覚まし時計さんに対して、失礼千万な声が響いてくる。これでは「彼」、「彼女」だろうか、の立場がない。
「もなか! いいかげん、起きろよ!!」
目覚まし時計さんに、強力な助っ人が現れた。
茶褐色のネコが、布団の中でぐずっているご主人様の土手っ腹に飛び乗ると、トランポリン代わりに数回ジャンプする。
「ぐえっ!!」
ご主人様に反応があった。カッと目を見開いて、腹の上の茶褐色のネコを睨む。
「アポロン! なんてことするのよ!! おなかの子を殺す気!?」
安眠を妨害されたご主人様は、いきなり罵声を浴びせた。
「いつ妊娠したんだよ、もなか! だいたいバージンのくせして、どうやったら妊娠ができるんだよ!」
「マリア様は、バージンだって、ちゃんと妊娠したわよ。だいたい、あんたがなんであたしがバージンだってこと知ってるのよ!」
「違うのか!?」
「………そうだけど………」
「馬鹿なこと言ってないで、早く起きろよ! 遅刻するぞ!」
「え゛!?」
もなかは慌てて時計を見る。が、ない。枕元に置いたはずなのに、あたしの可愛いぴよぴよちゃんがいない。
「アポロン! あんた、あたしのぴよぴよちゃん食べたでしょ!?」
「食うわけないだろ! さっき、自分で吹っ飛ばしたじゃないか!!」
「え゛!?」
もなかは、アポロンに示された床に視線を動かす。シュガーピンクのカーペットの上に、黄色いぴよぴよちゃんが、鳴きつかれてぐったりしている。
「ぴよぴよちゃん!!」
飛び起きて、ぴよぴよちゃんをいとおしく抱きしめた。
「ごめんね、ぴよぴよちゃん。痛かった?」
すりすりと頬ずりする。
「げげっ!!」
ぴよぴよちゃんのお腹の丸い時計を見て、もなかは青ざめた。
「ぴ、ぴよぴよちゃんの馬鹿ぁ!! なんで、もっと早く起こしてくれないのぉぉぉ!!」
「起こしてたよ………」
と、ぴよぴよちゃんが言ったとか言わないとか。
もなかは光の早さで着替えると、どどどっと、階段を駆け下りる。
「お母さん、おはよう! 行ってきます!!」
朝食のパンを口にくわえると、走ってもなかは玄関に向かう。
「もなか! お父さんに行ってきますは?」
キッチンから、母親の若葉の声が飛んできた。若い母親である。高校在学中にもなかを身ごもり、中退して出産した彼女は、まだ三十代前半である。童顔でもあるために、もなかの姉だと言っても、だれも疑う者はいないだろう。
「ああん! もう!!」
文句を言いながらも、もなかは引き返してくる。
チィン………。
「お父さん、行ってきます」
もなかは仏壇の父の遺影に告げると、それこそ光の早さで玄関を飛び出す。
「まったく………。似なくていいトコまで、あなたに似ちゃって………」
若葉ママは夫の遺影をちらりと見て、小さく笑った。
十番中学へは、走っていけば十分で着く。
始業ベルと同時に、教室に滑り込んだ。
「セーフ!」
教室に駆け込んできたもなかを見て、親友の木下奈々が声をかける。
「桜田先生は、まだ来てないよ」
「ひえぇぇぇ。死ぬかと思ったよ………」
はあはあと息を切らしながらも、もなかは自分の席に付いた。
「ったく、もっと早く起きれないのかよ!」
悪態を吐いたのは、月野進悟である。小憎らしい顔を、もなかに向けている。
「よ・け・い・な・お・せ・わ!! あんまし変なこと言うと、うさぎお姉に言いつけるよ!」
人差し指を立て、お姉さんが弟でも叱っているように、もなかは言った。
「バカうさぎのこと、知ってんのか!?」
「その『バカうさぎ』っていうの、うさぎお姉によーく言っとくよ」
「言いたきゃ言ゃあ、いいだろ! バカうさぎなんか、ちっとも怖くねぇ!」
ひらきなおりは、進悟の得意とするところだ。もなかの方が、言う言葉がなくなってしまった。この辺りはさすがに姉弟である。うさぎによく似ていると思う。
「月野のお姉さんて、美人だよな」
前の席の飯田剛史が、思い出したように言った。
「そうか?」
首を傾げてみせる進悟だが、自分の姉を誉められれば悪い気はしない。悪態はついてはいるが、そこは姉弟である。
「カレシとか、いんのか?」
「なんだよ、飯田。姉貴を狙ってんのか?」
「そういうわけじゃないけど、やっぱ気になるじゃん」
「そういうもんか?」
進悟には理解できないことだ。進悟は自分の姉のことを、しみじみ美人だなどと思ったことはなかった。姉の友人に美人が多いために、気が付かないのだ。うさぎ曰く、灯台もと暗しとは、正にこのことである。
「で、どうなんだよ」
「いるよ! かっこいいヒトが!」
もなかが会話に割り込んできた。だが、残念ながらもなかは、そのうさぎの「かっこいいカレシ」を見たことがない。うさぎのまわりの人物から噂を聞いているだけだった。
「もなか、知ってんのか!?」
飯田剛史は身を乗り出す。
「気安く呼ばないでよ! あんたとつき合ってるわけじゃないのに、親しげに名前を呼ばないでよね! まわりが誤解するでしょ!?」
「細かいこと、気にすんなよ!」
「女の子は気にすんの!!」
もなかは、かみつかんばかりの勢いだ。
「俺を挟んで、喧嘩しないでくれよぉ」
真ん中に挟まれた形の進悟が、仲裁に入った。
奈々も「まあまあ」と言って、もなかを宥めている。
「でも、飯田。姉貴には、ホントにカレシがいるぜ。すっげー秀才の」
「ほ、本当か? 会ったことあるのか?」
「ああ。家に何度か来たことがある。確か、KO大の医学部に通ってるはずだよ」
「い、医者の卵か!? くっそー!!」
飯田は非常に悔しがっている。拳なぞ、ぷるぷると振るわせていたりする。
「お前、年上好みだったのか?」
以外だという風に、進悟は飯田を見る。
「ま、いいや、カレシがいたって………。月野、一生のお願いだ。お前の姉さんの写真くれ!」
飯田は進悟の両肩に手を起き、哀願するように見る。さすがの進悟も、圧倒されていまうほどだった。
奈々が、白い目で見ている。もなかとふたり、「エッチねぇ」などと囁き合っている。
「なにすんだよ、写真なんか」
「細かいこと訊くなよ。男同士だろ? できるだけ、露出度の高いやつを頼む」
飯田の目論見は、側で聞いている女の子たちには見え見えだった。それだから、彼は女の子から毛嫌いされるのだ。悲しいことに、本人は、それに全く気付いてはいなかった。
もちろん、あとでこっそり、進悟が飯田にうさぎの下着(もちろん、使用済み)を盗んできてくれと頼まれたことは、言うまでもない。
「太陽さん! 明日はちゃんと、宿題をやってくるのよ!」
放課後、職員室に呼び出しを受けたもなかは、担任の桜田春菜先生に、小言を言われることとなった。二日連続で、宿題をやってくるのを忘れてしまったためである。さすがに二日続けてとなると、教師の立場では生徒を叱らなければならない春菜先生は、職員室にもなかを呼び出したのだ。
「分かった!?」
念を押すように、もなかに言う。
「………はい………」
今にも消え入りそうな声で、もなかは答えた。がっくりと肩を落としている。
そのあまりにもの落ち込みように、少々叱りすぎたかもしれないと思った春菜先生は、大きな溜息を吐いた。つい、ヒステリックになってしまうのは、自分の悪い癖だと思う。
「………もう、いいわ。帰りなさい………」
「はひ………」
まるでロボットのように、ぎくしゃくとした動作でくるりときびすを返すと、がっくりとうなだれたまま、もなかは職員室を出ていった。
「あたしって、どうしてすぐヒステリーを起こしちゃうのかしらね………」
もなかの後ろ姿を見送りながら、春菜先生は呟いていた。
もなかはとぼとぼと歩きながら、正門を出た。アポロンが待っていたことも気が付かない。かなりの重傷だった。
「だから、俺があれほど注意したのに………」
アポロンの嘆きも耳に届かないのか、もなかはまるで幽霊のふわふわと漂うように歩く。生気がまるでない。
「だめだな、こりゃ………」
アポロンは溜息を吐く。もなかは一端落ち込むと、自然に立ち直るのに、非常に時間がかかる。普段、人並み以上に陽気な性格の反動であるかもしれなかった。きっかけがなければ、一週間以上も落ち込んだままだということも、しばしばあった。
「あ、もなか!」
ふと、顔を上げたアポロンは、自動歩行中のもなかを慌てて呼び止めた。が、間に合わなかった。
ドン!
前方から歩いてきた背の高い青年に、正面からモロにぶつかった。
もちろん、落ち込みの激しいもなかには、今起こったことを判断できるような余裕はない。青年にぶつかったまま、電池の切れたおもちゃのロボットのように、動かなくなってしまった。
「………おい。大丈夫か?」
自分の体に引っ付いたまま動かなくなってしまったもなかに、青年は困惑したような顔を向ける。
「あ?」
虚ろな眼差しで、もなかは顔をあげる。端正な青年の顔を間近に見て、ようやく状況を把握した。ぶつかってから、五分は経過していると思われた。
「あ、すっ、すいませんっっっ!! ボーッとしてたもので………」
やっとこさ状況を理解したもなかが、慌てて青年から離れ、ぺこぺこと頭を下げた。
「いや、俺も前をよく見ていなかったから、お互い様だよ」
青年はそう言ってくれた。平謝りしていたもなかは、そこで再び顔をあげて、青年の顔をまじまじと見た。いい男だった。もなかの好みのタイプである。
大学生だろうか。サングラスをかけているために、細かいところまではよく分からないのだが、絶対にいい男のはずだと、もなかは確信していた。しかし、一緒にいる中学生の女の子は何者だろうか。
芝公園中学の制服である。この男性のカノジョにしては、ちょっと不釣り合いなような気がする。自分の方が、断然ふさわしいと思う。男性の妹だろうか。いや、絶対に妹に違いない。これは神様の思し召し。運命の出会いに違いない。
もなかはうっとりとした表情で、青年を見つめる。しかし、次の瞬間には、もなかは現実の世界に引き戻されていた。
「ちょっとぉ! 気を付けてよね! なに、ぼけっとして歩いてんのよ!!」
なんじゃ、こやつは!? カチンときた。ぶつかった青年に文句を言われるのは仕方がないが、なんの迷惑もかけていない、連れの女の子にいちゃもんをつけられる謂れはない。
「別にあんたにぶつかったわけじゃないでしょ!? あんたなんかに文句言われる筋合いなんて、ないわよ!! だいたい、なんで芝公園中学のあんたが、十番中学( の前を歩いてんのよ!?」)
食ってかかった。しかし、敵もさる者ひっかく者、すぐに反撃してきた。
「どこ歩こうが、あたしの勝手でしょ!? それこそ、あんたに文句言われる筋合いなんかないわよ!!」
睨み合いになった。もう、こうなったらあとには引けない。ここで負けたら、太陽もなかの名が廃る。もなかは、人一倍負けず嫌いなのだ。
アポロンがハラハラしながら、何か言いたげにもなかを見ている。もちろん、仲裁に入りたくとも、一般人の前ではしゃべることができない。
青年はそんなアポロンを一瞥すると、
「よさないか! 操( 」)
少し厳しい表情をして、仲裁に入った。
「だあってぇ!」
操と呼ばれた女の子は、身をくねらせて甘えたような声を出した。全く別人のような表情で、懇願するように青年の顔を見上げた。
「だってじゃない! 俺の方も悪かったんだ。あんな言い方は失礼だろう!? 彼女に謝るんだ!」
「ええ〜〜!?」
「操!!」
「はあ〜い」
操という女の子は、仕方がないという風に、もなかに向き直った。どうでもいいが、その可愛い子ぶりっ子のしゃべり方は何とかしてもらいたいと思う。
「悪かったわね!」
操はもなかに向き直ると、早口に言った。ひどく高飛車な言い方だった。口調がさっきとまるで違う。
もなかは再び、プチンとキレそうになった。が、それよりも先に、青年の方が、女の子を叱っていた。
「ご・め・ん・な・さ・い!!」
やけに力を込め、乱暴に言うと、申し訳程度に頭を下げてみせた。
(この女の子、そーとー性格悪いぞ!)
脇で成り行きを見ていたアポロンは、心の中で思った。
(………しかし、あの男。どこかで会ったような気がする………)
もなかに対してアカンベーをしている女の子を、引きずるようにして去っていく青年の後ろ姿を見ながら、アポロンは首を捻っていた。
「あったまきちゃうわ! あのおんな!! 今度会ったらぶっ飛ばしてやる!!」
腕をブンブン振り回しながら、もなかは激怒していた。さっきまでの落ち込んでいたもなかは、もうここにはいなかった。春菜先生に怒られたことなど、すっかり忘れてしまっているだろう。ついでにおそらく、宿題のことも忘れてしまったのに違いない。アポロンは、また別の心配をしなければならなくなってしまった。
「あームカつく! 太陽もなかは、とってもごきげんナナメだわ!!」
「おいおい………」
うなだれるアポロンを尻目に、もなかの思考は、既に別のことを考えている。
「………それにしても、さっきのヒト、かっこよかったわぁ………。あ! 名前聞くの忘れた!! あ〜ん。太陽もなか、一生の不覚」
「まったく、どういう頭の構造してるんだか………」
アポロンには、全く理解できない領域だった。