九
銀の光に包まれているルナの姿を見て、衛は目を見張った。ルナから感じる力に、驚きを隠すことができない。
いや、驚いているのは衛だけではなかった。亜美も、美奈子も、大道寺も、清宮も、美園も、そして球体の結界の中に囚われている全ての仲間たちが、ルナから感じる力に驚愕していた。
「そんな……。これはセーラームーンの力じゃないのか!?」
アルテミスだけが、やっとそう口に出すことができた。
ルナはセーラー戦士へと変身していた。
「ルナ……。あなたは……」
ディアナは信じられないものでも見るように、セーラー戦士へと変貌を遂げた我が娘に目を向ける。
「あなたは、四守護神にはなれなかったのに……」
「お母さん」
ルナは母親の顔を見詰めながら、柔らかく首を左右に振った。
「あたしの任務は、四守護神になることではなかったの。あたしも初めは、四守護神に抜擢されるものだとばかり思っていた。だけど、すぐに違うと気付いたの」
「違う……?」
「あたしの任務はね、お母さん。四守護神のひとりとなってプリンセス・セレニティを守ることではなくて、四人の守護神を束ね、プリンセス・セレニティを影ながら守ることだったの。そのために、あたしは『月』を守護星にもらった。四守護神を束ね、プリンセス・セレニティを守るためのセーラーガーディアン・セーラームーン。それが、あたし。だけど……」
ルナは目を伏せる。
「あたしは、あの時何もできなかった。プリンセスを守れず、そして四守護神を見殺しにしてしまった……。それが、あたしの罪」
ルナの瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
「セーラームーンとは、本来はルナが名乗るべき名前だったのね」
美園が口にした考えを、否定する者は誰もいなかった。いや、そんな心の余裕すらなかったのかもしれない。
ルナがセーラー戦士としての能力を持っていたという事実より、うさぎが命を落とした現実の方が、遙かに衝撃的だったためだ。
「茶番はもういいわ」
誰しもが無言だった静寂を破ったのは、魔女ナイルだった。
「セレニティは死に、わたしの目的のひとつは成ったわ。あとの目的はふたつ。ひとつは過去に戻り、クイーン・セレニティに復讐をすること。そしてもうひとつは、あの日、クイーン・セレニティと協力してわたしを封印したルナ、あなたをこの手で八つ裂きにすることよ」
魔女ナイルは、殺気立った瞳をルナに向けた。
「あたしは死なない。罪を償うために、あたしは死ぬわけにはいかない」
「死して一瞬で償うより、生きて償い続ける方を選ぶか……。愚かなことだけれど、嫌いじゃないわよ、そういう考え方。だけどね、それはあなたの事情。あたしの希望は、今この場でのあなたの死」
魔女ナイルの全身が、禍々しい魔力に包まれる。そのナイルの眼前に、すうっと人影が滑り込んできた。美しいナイルの顔が、ピクリと波打つ。
「ディアナ……。やっぱり邪魔をするつもりね?」
「彼女たちにルナを攻撃させたのは、そう言うことだったのね」
「あなたと同時に攻撃する手筈だったんだけど、あなたが躊躇していたから、妹たちがしびれを切らしてしまったのよ。でも、結果的にはわたしの望む形になったから、妹たちを罰するつもりはないわ」
「ナイル……」
「あなたも満足でしょ? セレニティが死んで、あなたの娘を縛る枷はなくなったわ。あなたの目的も達成されたわけよね? ここから先は、もうあなたの出番はないわ。あなたは、自分の時代にお帰りなさいな」
ナイルはニコリと笑う。
「わたしの駒として働いてくれたせめてものお礼に、あなたの命は奪わないでおいてあげる。さぁ、“お嬢ちゃん”、ディアナをもとの時代に戻してあげて頂戴」
ナイルはあの「少女」に向かって言ったのだろう。しかし、少女から返事は返ってこない。
「どうしたの? 近くで見てるんでしょ?」
「いるわよ。全部見てたわよ。おばさん、ちょっと詰めが甘いね」
「そうかしら? わたしの詰めは、これからよ?」
「ふぅん、気付いてないんだ……。どうなっても知らないよ?」
「何を言っているのか分からないけど、早くわたしの指示を実行してくれないかしら?」
「なんで?」
「え!?」
「なんで、おばさんの指示通りにあたしが動かなくちゃいけないの? あたしには関係ないじゃない。自分の失敗の責任は、自分で取ってよね。おばさんのせいで、あたしの計画はやり直しになっちゃったわ。作戦を練り直さなくちゃいけないから、あたしはお家に帰るね。じゃあ、バイバイ」
ナイルはあまりのことに、リアクションを取ることができなかった。その無防備な状態を、眼前のディアナが見逃すはずがない。ナイルは、ディアナの渾身の衝撃波によって吹き飛ばされたが、致命傷には至らなかった。
「土壇場で、裏切られたわね」
「あのような得体の知れない者と手を組んだわたしが、愚かだったということなのね……」
口に中に傷を負ったのか、流れ出た自らの血を舌で舐め取りながら、ナイルは悔しげに呻いた。
「お姉様!!」
ナイルを守るべく、四人の女戦士たちは、ナイルの前方に立ちはだかって壁となった。しかし、その肉体が次第に薄らいでいく。
「な、なに!? これはどういうこと!?」
シニスは消えていく自分の両手を見詰めながら、驚愕に表情を振るわせた。
「まさか、体が維持できなくなっている!? あいつ、あたしたちの肉体そのものをこの時代に移動させたのではなく……」
「仮の器をこの時代に作って、精神だけを移していたのね!?」
カリュアの言葉をイーダが引き継いだ。
「あたしたちは、初めからあいつに利用されていたということなの……?」
ラクジットのその言葉が最後だった。彼女たちの肉体は、光の粒子となって瞬く間に霧散してしまった。
ディアナも恐らく、例外ではでないだろう。しかし、彼女の肉体の崩壊は、まだ始まっていなかった。もう少し、時間が残されているようだ。
「自分の娘を信用できなかったあたしも愚かだけど、自分の目的のために訳の分からない相手と手を組んだあなたも愚かよね」
「そうね。返す言葉もないわ……。だけど、この場にいる者を殲滅するくらいは、わたしには造作もないことだわ。それに、わたしはこうして復活を果たすことができた。あながち、無駄だったとは言えないわ」
ナイルは魔力を増大させた。クイーン・セレニティが恐れたと言うのは、事実なのだろう。その邪悪な魔力は、ネヘレニアを彷彿とさせた。
「クレッセント・ビーム!!」
横たわるうさぎの傍らで片膝を突いていた美奈子は、突如としてセーラーヴィーナスに変身すると攻撃に転じた。
「亜美ちゃん、まもちゃん、しっかりして! ナイルを倒すわよ!!」
俯いていた衛と亜美は、その声で弾かれたように顔を上げた。うさぎの仇を討たねばならない。衛はタキシード仮面に、亜美はセーラーマーキュリーへと変身する。その後ろに、クンツァイト、ジェダイト、ゾイサイトの三人が並んだ。
「そんな攻撃、わたしには通用しない」
クレッセント・ビームを見えない壁で弾き返したナイルは、静かに笑った。
「ヴィーナス・ウインク・チェイン・ソード!」
「ルナテック・ムーン・レヴォリューション!!」
ヴィーナスが飛ばした光の剣も、ルナが放った光の衝撃波も、ナイルは見えない壁で完璧に防いでみせて、優雅に笑んだ。
「マジック・シールドね!」
マーキュリーが素早く分析をする。これでは、自分たちの技ではナイルに傷を負わせることすらできない。
ナイルも勝ち誇ったように笑む。
「その通りよ。あなたたちの“魔法”では、あたしを倒すことはできないわ」
「じゃあ、こっちならどうかな?」
ナイルの背後で声がした。キラリと光る一降りの剣が、上から下に振り下ろされる。ナイルの体が四散した。
「イリュージョンね」
「それじゃあ、いくらがんばったって倒せない」
スペースソードを右肩に担いで、ウラヌスはふて腐れたように言う。
「実体は?」
「そんなに遠くにはいないと思うけど……」
ネプチューンは周囲を見回す。
「あれだけの邪気を持ちながら、それを完全に消し去って隠れるとはね。虚無の女王とは、よく言ったものだわ」
「ネプチューン( 。妙なところで感心しないでよ」)
ウラヌスは困ったように苦笑した。その間でも、右手の指先でスペース・ソードをクルクルと回しながら、ナイルの行方を探る。
マーキュリーはナイルの体が不自然に四散した瞬間に、周囲の索敵を始めていた。
「タキシード仮面( !!」)
マーキュリーが見ている方向に、タキシード仮面は素早く体を走らせる。横移動する影が一瞬だけ見えた。魔女ナイルだ。
「タキシード・ラ・スモーキング・ボンバー!」
「魔法はわたしに利かないと言った!」
「分かってるさ」
鼻が付かんばかりの距離に、タキシード仮面の顔があった。タキシード仮面は、スモーキング・ボーバーをカモフラージュにして、突っ込んできていたのだ。
「ぐっ……」
腹部に激痛が走っていた。深々と腹部に突き刺さっているタキシード仮面の黄金の聖剣( の剣先は、ナイルの背中から突き出ていた。)
「この距離なら、防げまい」
次いでタキシード仮面は、右掌をナイルの左胸に押し付ける。
「タキシード・ラ・グレネード・バスター!!」
「!?」
凄まじい衝撃によって、魔女ナイルの肉体は瞬時に消滅していった。
「倒せた?」
「分からない。逃がしたかもしれない」
投げ掛けられたネプチューンの言葉に、タキシード仮面は答えた。クイーン・セレニティが恐れたほどの魔女だ。そう簡単に倒せるとは思っていない。しかし、周囲からナイルの気配を感じ取るとこはできなかった。
「逃げたにしても、深手を負ったのは確かだ。すぐには仕掛けて来ないだろう。その間に対策を考えればいい」
ウラヌスの声に肯きながら、タキシード仮面は横たわるうさぎに顔を向ける。
「?」
その瞳に、うさぎの笑顔が映る。
魔女ナイルが消滅したことを見届けてから、ディアナはルナに向き直った。体に異変を感じ始めていた。どうやら、そろそろ消滅の時間が迫ってきたらしい。
「お母さん!!」
駆け寄ろうとする娘を、ディアナは首を振って制した。恐らく、もう抱き合うことは叶わない。虚しい抱擁をするよりも、実のある会話がしたかった。
「ルナ。あなたは、幸せだった?」
ディアナのその言葉に、ルナは涙をいっぱいに溜めた瞳のままで肯いた。ディアナは眩しそうに、セーラー戦士の姿の我が子を見詰める。
「もっときちんと話をしたかったけど、あたしはあたしの時代に戻らなければいけないようね……」
名残惜しそうに、ディアナは言った。ディアナの体が、次第に透けていく。
「お母さん!」
「あなたが幸せなら、それでいいわ」
ディアナは満足げに肯く。そして、視線をルナとは少し違う角度に向ける。
「ありがとうセレニティ。ルナを、これからもよろしくお願いします」
深々と腰を折った姿勢のまま、ディアナは光の粒子となって、そして消えていった。
「これからも……?」
どういうことなのだろうかと、ルナは思った。うさぎは自分を庇( って死んでしまったはずだ。うさぎはもう、自分と共に歩むことはできないはずなのに。)
何かが左肩に触れた。それは手だった。見覚えのある細い指。左手だ。薬指に光るハートのリング。
「うさぎちゃん……?」
夢を見ているのではないかと思った。夢でなければ、幻を見ているのだ。
しかし、左肩にはうさぎの手の感触があり、うさぎの温もりを感じる。
夢でも、幻でもない。
「本当に、うさぎちゃん?」
「そうだよ、ルナ」
うさぎはニッコリと笑った。
うさぎの後ろには、操ともなか、ほたるの姿があった。
「あの瞬間、磁場を歪めてうさぎさんを守ったんだけど、百パーセント衝撃を吸収しきれなかったみたい。うさぎさんが動かなくなっちゃったんで、あたしの磁気フィールドが間に合わなくて、本当に死んじゃったかと思って、ヒヤヒヤもんだったわ」
操は小憎らしい笑みを浮かべた。
「いや、本当に心臓止まったんだってば」
ほたるが訂正を入れてくる。
「そうそう。ほたるちゃんが機転を利かさなかったら、お姉、マジでヤバかったかも」
「お、脅かさないでよ……」
うさぎはゴクリと唾を飲み込んだ。でも、ルナは納得していない。
「だって美奈子ちゃんが……。って、もしかして、あなたたちグル?」
「主演女優賞もらえるかな?」
目薬を手にした美奈子が、ニカッと笑った。
「お前、ニヤニヤ笑ってたじゃんか」
「タッくん! あれはね、演技よ、え・ん・ぎ!」
突っ込みを入れてきた清宮に、美奈子は必死に弁解をする。更に、うさぎか畳み掛ける。
「主演はあたしよ、美奈P。見事な死にっぷりだったでしょ?」
「気絶してただけのクセに……」
種明かしをすれば、なんてことはない。仙台坂上交差点付近で合流することができた、ほたるたちと美奈子たちは、共謀して一芝居打ったということなのだ。
「それにしても、ルナ格好いいね。セーラームーンみたい」
もなかが憧れの眼差しで、セーラー戦士姿のルナを見ている。
「セーラームーンみたいじゃなくって、セーラームーンなんだってば」
操が言った。
「え? セーラームーンなの? じゃあ、お姉は?」
「うさぎさんは現在のセーラームーン。ルナは、過去のセーラームーン。ま、あんたのミジンコ並みの脳ミソじゃ、理解できないでしょうけどね」
「ミトコンドリアくらいはあると思う」
「それ、あんまり変わってないって……」
横からほたるが、突っ込みを入れた。
「うさぎちゃん。よかった、無事で」
ルナは目に涙を溜めている。
「あたしは、守ってくれる人がいっぱいいるから」
「うん。そうよね」
ルナは回りを見回した。そこには、大勢の仲間たちがいる。うさぎの危機を察知し、ドイツから帰国して来たらしい衛や亜美がいる。仲間の誰かからうさぎの危機を知らされ、戻ってきたはるかとみちるの姿もある。楽しい旅行に行っていたはずの、美奈子や清宮、美園もいた。みんな、うさぎのために集まってきたのだ。
「あたしたちは、それぞれ罪を背負って生きている。誰かひとりが、責任を負わなければならないなんてことは、ないはずだ」
自分も背負っている「罪」がある。なびきはそう言った。
「過去があるから、今がある。それでいいんじゃないか?」
アルテミスはそう言うと、自分のセリフが照れくさかったのか、そそくさとネコの姿へと変身して、美奈子の肩に飛び乗ろうとジャンプする。美奈子がスルリと身を翻( したので、目標を失ったアルテミスは、バランスを崩して地面にベチャリと激突した。そのアルテミスの無惨な姿を見て、一同は全員声を上げて笑った。)
「お母さんの誤解が解けて、よかったね、ルナ」
笑いの渦の中、うさぎはルナの顔を見て、嬉しそうに笑んだ。
「うん」
ルナは大粒の涙を流しながら、笑顔でそれに答えた。
「ナイルもセレニティも、なかなかしぶとい」
水晶の中に映された映像を見ていた女性が、嘆息とともに呟いた。短いスカートには、イエローのラインが入っている。
「他人をアテにするなってことじゃないかしら?」
少女の声が、背中に投じられてきた。水晶から目を離し、女性は僅かに声のした方に首を傾けた。
「我々が行きますか?」
「今は時機を逸したわ。セレニティに罰を与えるのは、次の機会にしましょう。それよりも先に、やらなければいけないことがあるでしょ?」
「ナイル配下の者たちの始末ですね?」
「あの人たちは、ちょっと知り過ぎちゃったからね。メンドーなことになる前に、消去しないといけないわ」
「畏まりました。我ら、“名無し”にお任せを」
女性は右手を左胸に当てて、小さく腰を折った。