目の前に火川神社の鳥居が現れた瞬間、ルナは自分がプルートによって強制的に転移させられたのだと知った。
 自分の姿を発見したフォボスとディモスが、どこからともなく飛来してきた。
「ルナ様。おひとりですか?」
 ルナが人間体だったからなのか、フォボスとディモスも人間の姿に戻って、ルナの眼前にふわりと降り立った。声を掛けてきたのは、フォボスの方だ。
「どうやら、あたしだけみたい」
 ルナは曖昧に笑って、フォボスへの返事とした。目の前の双子は、全く同じ角度で怪訝そうに首を傾げた。
「……ごめんね。実はあたしもよく分かってないの。敵からの攻撃を受けた瞬間、あたしだけがせつなさんの力でこっちに飛ばされたみたいなんだけど……。ところで、こっちの状況はどうなの? うさぎちゃんは無事?」
 ディアナはこちらに来ているはずだ。ルナとしては、うさぎの身が一番心配だった。
「あ! そうでした!! 女学院にレイ様を呼びに行く途中だったんです!」
 突然、思い出したというように、フォボスは声を張り上げた。のんびりとしている場合ではないらしい。T・A女学院に向かう途中でルナの姿を発見したので、降下してきたのだとディモスが説明した。
「何か起こっているのね?」
 今度はルナが質問する番だった。
「はい。うさぎ様とまこと様が、ディアナ様と戦っておいでです」
「ちょ、ちょっとぉ! それを先に言ってよ!! 場所はどこ!?」
 ルナは慌てた。本当にのんびりしている場合ではない。
「有栖川公園です」
 ディモスが即座に答えてきた。
「分かった、あたしが行くわ。ふたりは手分けして、レイちゃんと新月に連絡をお願い」
「了解!!」
 小気味よく返事をし、フォボスとディモスのふたりはふわりと飛び上がると、カラスの姿となって飛び去っていった。
「急がないと……」
 ルナは体を巡らし、有栖川宮記念公園を目指した。

「ん? 誰もいないのか?」
 不眠不休で移動してきた衛、亜美、忍の三人は、無人の司令室を見て悪い予感を抱いた。
 ひっそりとした司令室は、まるで使う者がいなくなって放置されたままの部屋のようだ。
「いいところに戻ってきてくれた」
 待機状態だった機器が作動を始め、“ボス”の電子合成された声が響いた。
「その様子だと、こっちで何か起こっているな?」
“ボス”の声音から、衛は「不吉」を感じ取った。
「何か起こっているなんてレベルの話じゃない。一大事だ、プリンス」
「一大事なら、どうして司令室にルナがいないの?」
 亜美が尋ねた。メンバーの連絡係であるはずのルナまでもが、出払わなければならないような事態だというのだろうか。その割には、通ってきた麻布十番商店街は平和そのものだったし、一帯に不穏な空気も感じない。それとも、十番とは離れたところで事件が起こっているのだろうか。
「そのルナに関わることだ。詳しく説明している時間がない。とにかく、誰かひとりを残して、ふたりは有栖川公園に行って、プリンセスを守ってくれ」
「プリンセス……うさぎちゃんが危険なのね? レイちゃんやまこちゃんは一緒じゃないの?」
「まことはいる。どうやら、ルナも戻ってきたようだ。だが、ルナを救出に行った面子が戻って来ない。向こうでも何か予期せぬ事が起こったと考えるべきだな」
「ルナを救出って……」
 亜美としてはもう少し情報が欲しかったが、
「すまないが急いでくれ」
“ボス”の急かす声に、言葉を飲み込んだ。
「司令室にはあたしが残るわ。地場くんと亜美は、うさぎのところに行って」
 忍はそう言うと、手近なシートに腰を据えた。

 ルナが有栖川公園に到着した時に最初に目にした光景は、ディアナの攻撃をしゃにむに防いでいるジュピターの姿だった。
「うさぎちゃんは……?」
 次いでルナは、うさぎの姿を捜す。いた。ジュピターの後ろだ。理由は分からないが、セーラームーンに変身をしていない。正に城壁の如く、ジュピターがうさぎの前でディアナの攻撃を跳ね返しているのはそのためのようだ。
「やめて、お母さん!!」
 ルナは叫び、その身をジュピターの前にさらけ出した。
「ルナ!? どうやってここに!?」
 この場に現れたルナの姿を見て、ディアナは困惑した。ルナはあの部屋に閉じ込めてきたはずだ。扉は自分の魔法でロックしている。自分以外には開けることができない。
「アルテミスが助けに来てくれたの」
「アルテミスが……」
 扉そのものが破壊されたのかもしれないと、ディアナは考えた。アルテミスなら、そのくらいの芸当はできる。
「何をモタモタしているの?」
 邪悪な“気”が、辺りに充満した。豪華な装飾が施されたローブを(まと)った美しい女性が、ディアナの背後に現れる。更にその後ろには、四人の美女が横一列に並ぶ。魔女ナイルである。
 魔女ナイルの出現に僅かに遅れて、レイと新月が有栖川公園に到着した。フォボスとディモスの姿は見えない。他の仲間を呼びに行っているのかもしれない。
「なんて禍々しい“気”。あれが、魔女ナイル……」
「ああ。たぶん、間違いない」
 レイと新月は申し合わせたようにセーラー戦士に変身し、戦闘態勢を整えた。関心がないのか、魔女ナイルは、そんなふたりをチラリと見ただけだった。
「ルナ。あれが、魔女ナイルね?」
「ええ、そうよ。うさぎちゃん」
 ルナは僅かに首を後方に傾けて、うさぎに答えた。同時にジュピターとうさぎの位置も確認する。誰がどこにいるのか(あらかじ)め知っておかないと、もしもの時に行動を起こせないからだ。
 魔女ナイルは、覗き込むようにしてうさぎに顔を向けた。
「あなたが、プリンセス・セレニティね?」
 返事をする必要性はなかったが、うさぎはコクリと肯いた。ナイルは品定めでもしているかのように、うさぎの顔をしばらくの間眺め見る。
「瓜二つとまではいかないけど、確かにセレニティとよく似ているわね。……それにしても、クイーン・セレニティも酷いことをしたもだわ。娘だけを転生させて厄介な銀水晶を押し付け、自分はあの世で高見の見物とはね。狙われるのは、常に娘のあなたということになるわ。恐がり屋さんの彼女らしいやり方ね。同情するわ」
 言葉とは裏腹に、ナイルは揶揄するような視線を向けてくる。うさぎは負けじと睨み返した。
「あなたが黒幕ね!?」
「さあ……。どうかしらね」
 ナイルはうさぎの言葉を受け流した。黒幕と言われて悪い気はしないが、実際のところは半分しか正解ではないからだ。黒幕は、もうひとりいるのだ。しかし、そんなことを口にするつもりはなかった。
「うさぎに手出しはさせないわ!」
 マーズとアスタルテが、ジュピターを中央に挟んで横に並んだ。
マーズ(レイ)アスタルテ(しんげつ)。うさぎの指示だ。ディアナには手を出すな」
 ジュピターは小声でうさぎの意志を伝える。
「馬鹿な! 無茶苦茶だ」
 アスタルテは、後方のうさぎをチラリと見てから言った。うさぎがセーラームーンに変身していない理由が、ようやく分かった。
「無茶は承知だ。ディアナの攻撃はあたしが食い止める。ふたりは、後から来た連中の方を牽制してくれ」
「分かったわ。そうするしかないようね」
 マーズも覚悟を決めた。

「おい。お前たちの話だと、セーラーマーズは謎のセーラー戦士たちによって消されたことになっているんだが、あれはどう見てもセーラーマーズじゃないのか?」
 シニスは疑わしげな顔をラクジットに向けた。
「おかしいわね。そんなはずないんだけど……」
 何故だか分からないといった風に、ラクジットは首を捻った。
「うまく逃げることができたということなのでしょう。さして問題にすることではありませんよ」
 ナイルは気にしていない。どのみち、この場でセレニティ共々まとめて始末するつもりなのだ。
「ギャラリーには大人しくしていてもらった方が、ディアナはやりやすいわね」
「!? いけない! 三人とも気を付けて!!」
 ルナは体ごと後ろに向いて、マーズ、ジュピター、アスタルテの三人に注意を促したが、残念ながら間に合わなかった。何の抵抗もする間もなく、三人ともナイルの作り出した結界の中に、一瞬のうちに閉じ込められてしまった。
「みすみす、またみんなを……」
 ルナは悔しくて唇を噛んだ。自分がもっと注意を払っていれば、三人が結界の中に閉じ込められてしまうような事態は避けられたかもしれない。
「あなたたちも、そこでご覧なさいな」
 ナイルが手を翳すと、空中に球体が出現する。その中に、アルテミス、ネフライト、プルート、ギャラクシアの四人が囚われていた。
「みんな!!」
 うさぎが叫ぶ。アルテミスが何かを叫び返してくれているようなのだが、球体の外に声が漏れてくることはなかった。
「さぁ、ディアナ。邪魔者はいなくなったわ。思う存分、セレニティを懲らしめておやりなさい。セレニティを亡き者にして、あなたの娘の自由を取り戻すのよ」
 ナイルは囁きかけるように、ディアナの背中に告げた。

 フォボスとディモスから現状の説明を受けた操ともなかは、有栖川公園に向かっていた。
 仙台坂上の交差点で、二の橋から上がってきたほたると合流する。
「もなか!? 大丈夫なの!?」
 操と一緒にもなかがいることに、ほたるは少しばかり驚いていた。動けないという程ではないにしろ、全力で走れる状態まで快復していないはずなのだ。
「うさお姉が一大事のときに、のんびりベッドで寝てるわけにはいかないわよ!」
「さっきまで爆睡してたヤツが言う台詞かしら……」
 もなかが両手でガッツポーズをしている横で、操がジトリとした目を向けている。
「ところで、ほたるは体力ないくせに、何でわざわざ遠回りして仙台坂下の方から息切らして走ってくるわけ? 司令室にいたんじゃなかったの? 貧血起こして倒れたって、面倒見てあげないわよ」
 言い方は悪いが、操は心配してくれているようだ。ほたるはニコリと笑ってから、
「強力な助っ人を、成田まで迎えに行ってたのよ」
 と、答えた。操は目を丸くする。
「強力な助っ人? 成田って、成田空港のこと?」
「そうよ」
「で、どこにいるの? その強力な助っ人は」
 どこにも姿が見えないじゃん、とばかりに、操は両手を腰に当てて首を左に傾けた。
「十番に着くなり、すっ飛んで行っちゃった……。あたしは置いてけぼり」
 タハハハと、ほたるは情けなさそうに笑った。
「フォボスとディモスが戻ってきたよ!」
 もなかが上空を指差した。先行して様子を見に行っていたフォボスとディモスが、戻ってきたようだ。
 フォボスとディモスは、人間の姿になって地上に降り立った。
「状況は?」
 操が尋ねた。
「最悪です。急いでください」
 何が最悪なのか、詳しく説明をしてもらいたかったが、ほたるが問い掛けようとしたときに通信機がコールサインを出してきた。司令室の忍からだ。
「忍さん!? 衛さんと亜美さんも来てるんですか!? はい。今、仙台坂上の交差点です。いえ、近くにおふたりの姿は見えません」
「ほたるちゃん、ほたるちゃん! あそこにいる人たちって……」
 もなかがほたるの右肩をツンツンと突っついた。ほたるは、もなかが示した方向に顔を向ける。
「え!?」

 ディアナは右手を前方に突き出した。
 ターゲットはうさぎだ。
 今まで自分の攻撃をことごとく防いでいたジュピターは、今は結界の中に閉じ込められている。新たに現れたマーズとアスタルテも同じ運命を辿った。セレニティを守る者は、もうこの場には残されていない。自分の計画を妨げようとする者は、もうここにはいないはずだ。
「お母さん、お願い! うさぎちゃんを傷付けないで!!」
 いや、いた。セレニティを守る者が、ひとりだけ残っていた。ルナだ。ルナはうさぎの前で大きく両手を広げて、全身でうさぎを守るべく立ちはだかった。
「ルナ! 危険だから、退()がって!」
「大丈夫。うさぎちゃんは、あたしが守るから」
 背中に投げ掛けられたうさぎの声を、ルナはしっかりと受け止めてから、振り向いてそう答えた。
「ルナ。そこをどきなさい!!」
 ディアナは叱るような口調で言い放った。しかし、ルナは反発する。
「嫌よ!」
 その瞳からは、断固として反発するという強い意志が感じられた。
「ルナ。何故あなたは、そうまでしてセレニティを(かば)うの? どうしてお母さんの邪魔をするの?」
「……大好きだから」
 ルナは言う。すんなりと出てきた言葉だった。駆け引きではない、真実の気持ちだった。
「あたしは、うさぎちゃんが大好きだから! 大好きな人を守っちゃいけないの? お母さん」
「ルナ……あなたは……」
 ディアナは力なく右手を降ろした。ルナは少しだけ緊張を解いた。ディアナの心に変化が生じた。もう一度きちんと話をすれば、ディアナはきっと理解してくれる。ルナはそう感じた。
 次の瞬間、ルナは背中に衝撃を受けて前のめりになる。うさぎに突き飛ばされたためだと分かった。そして、自分を突き飛ばしたうさぎは……。
「うさぎちゃん!?」
 倒れていた。地面に。
 攻撃したのは、魔女ナイル配下の四人の女戦士たちだ。四人が狙ったのはうさぎではなく、ルナの方だった。それをうさぎが察知して、咄嗟にルナを(かば)ったのだ。
 襲ってきた四つの衝撃波の全てを、うさぎは全身に浴びた。変身していない生身の体には、想像を絶する衝撃だったはずだ。
「うさぎちゃん、しっかりして!!」
 ルナはうさぎを抱き上げた。うさぎは(うつ)ろな目を向けてきた。ルナに向かって、柔らかい笑みを浮かべた。
「ルナ……。あたしもルナのこと、大好きだよ……」
 うさぎは震える唇で、やっとそれだけを言うと、静かに瞼を閉じた。うさぎの体から、急速に力が抜けていく。
「うさぎちゃん……?」
 ルナはうさぎを抱き締めたまま、うさぎの体を揺り動かす。ガクリと首を垂れたうさぎからは、反応が全く返ってこない。
「ウソでしょ!? うさぎちゃん! お願い、目を開けて!!」
 ルナの必死の呼び掛けに対しても、うさぎは反応を示さなかった。心音が聞こえない。うさぎは息をしていない。
「どうしてよ、うさぎちゃん! どうして、あたしなんかを(かば)ったのよ!? うさぎちゃんが死んじゃったら、意味が無いじゃない!!」
 うさぎの体が、次第に冷たくなっていく。
「神様! どうして、こんなひどい仕打ちをするの!?」
 ルナはうさぎの体を抱き締めたまま、天を見上げて号泣した。

 有栖川宮記念公園に到着した衛と亜美が見たものは、ふたつの球体の中に閉じ込められている仲間たちと、うさぎを抱き締めて号泣しているルナの姿だった。
「一足、遅かった……?」
 通信機で連絡の取れなかった美奈子たちを、直接現地まで呼びに行って戻ってきた大道寺は、目の前の光景に茫然となってしまった。衛たちとは別ルートで有栖川公園まで来た大道寺一行は、この場面で衛たちと合流をした。
「地場が来ている!?」
 茫然としている衛の姿を見て、清宮は驚きを示した。いや、茫然としているのは衛だけではない。隣にいる亜美も同様である。
「うさぎちゃんが、どうなったの……?」
 その亜美の問いには、誰も答えてくれない。
 ルナ同様、球体の中の仲間たちも、皆悲しみに染まっていた。
 号泣するルナに抱かれたうさぎは、全身が力なくダラリとなっていて、動く様子がない。
「うさぎちゃんが、死んだ……?」
 亜美はプルートの口の動きから、この場で何があったのかを知った。ルナを守り、うさぎが身代わりとなった。
「ちょっと……。冗談じゃないわよ……。そ、そうか、ドッキリよね!」
 美奈子は無理矢理笑う。その不自然な顔付きのまま、うさぎの元に走り寄る。
「あたしだけ遊びに行ったんで、悔しかったんでしょ? もう、悪い冗談やめてよね!」
 美奈子はうさぎの鼻を摘んだ。その手が震える。
「つ、冷たい……。なんで? なんで冷たくなってんの? 体がこんなに冷えちゃったら、風邪ひいちゃうよ? ねぇ、うさぎ。どうしたのよ? なんか言ってよ、ねえ!」
 美奈子は笑い顔のまま、ボロボロと涙を流した。
「なんなんだよ、これ……」
 衛は目の前の現実を信じることができない。
「うさが……?」
 現実を受け入れることができず、衛は困惑をするだけだった。

 困惑をしているのは、ディアナも同じだった。
 ただ彼女が衛と違っていたのは、一番近くで一部始終を見ていたということだ。そして失ったものがないディアナは、より状況を的確に判断することができた。
「セレニティが、ルナを(かば)った……?」
 その事実を、ディアナは間近で見ていた。
 あれは一瞬の出来事だった。考える余裕すらなかっただろう。つまりは、打算からもたらされた行動ではないということだった。純粋な行動に他ならない。
 セレニティは咄嗟の判断で、我が身を省みずにルナを守ってくれたのだ。
「なぜ、ルナを攻撃したの……?」
 そしてもうひとつ、追求せねばならないことがあった。
 ナイル配下の四人の女戦士は、セレニティではなくルナを攻撃した。セレニティを狙ったものが逸れたというわけではなく、今の攻撃は、明らかにルナを標的とした攻撃だった。
「ナイル。答えて」
 ディアナは体を巡らし、後方に位置していたナイルに怒りの表情を向けた。そのディアナの瞳に飛び込んできたのは、困惑したナイルと四人の女戦士の顔だった。
 ディアナは始め、何故彼女たちがそんな表情をしているのか分からなかった。自分を(あざむ)くための芝居かとも考えたが、どうやらそうではないようだ。彼女たち五人は、全員同じものを見ていた。視線は自分の背後に向けられている。そこにある何かを見て、五人は困惑しているのだ。
 自分の後ろには、セレニティの亡骸を抱いて嗚咽する我が娘がいるはずだ。そのルナを見て、五人は驚いているというのか。
「?」
 ディアナは、背後から熱く強い力を感じた。
 ディアナは再び体を巡らし、向きを元に戻した。ルナと向き合う形となった。
 ルナは立ち上がっていた。彼女の足下には、セレニティが静かに横たわっている。
 ルナの仲間のひとり―――先程セレニティの鼻を摘んだ赤いリボンの少女も、驚いたようにルナに顔を向けている。
 そして、ルナの体は神秘的な光に包まれていた。