六
うさぎは入院中の育子を見舞っていた。まだ面会時間前だったが、育子の顔を見ておきたかったので、病院に立ち寄ったのだ。
うさぎが病室に入ったとき育子はまだ眠っていたが、うさぎの気配を感じて目を覚ました。
「ゴメンね。起こしちゃった?」
うさぎは育子が眠っていたので、顔を見ただけで帰ろうとしていたところだった。
「眠ってないわ。目を閉じていただけよ」
育子はベッドの上で上体をお越しながら、柔らかい笑みを浮かべた。化粧っ気のない顔は、いささかやつれたようにも見えたが、血色も良いし肌の艶( もある。念のための検査入院だったのだが、この分だと特に何も問題なさそうだ。健康そのものだという結果が出るかもしれない。むしろ、一睡も出来なかったうさぎの方が顔色が悪い。)
「さてはうさぎ。昨夜は遅くまでゲームをやって遊んでたな?」
娘の顔色の悪さを、育子はそう判断した。
「ちょっとね」
うさぎはチロリと舌を出した。そう思ってくれていた方がありがたい。
「ママ。今日は退院できるんでしょ?」
それ以上詮索されないために、うさぎは話題を逸らした。
「……それがね。二‐三日後になっちゃいそうなの」
「どうして? どこも悪くないんでしょ?」
「うん。ママもそう思ってたんだけどね……」
育子は少しだけ不安そうな顔をした。昨日行ったはずの検査後の医師とのやり取りの中で、何か予想外のことがあったらしい。
「ま、大袈裟なのよね、病院なんて。大丈夫。何でもなかったってことになるわよ」
自分にも言い聞かせるような、育子の口調だった。
「ママ……」
「大丈夫、大丈夫。ママが帰るまで、家のことを頼んだわよ、うさぎ」
育子は不安を振り払うように、努めて笑顔を作った。
病院を出たうさぎだったが、足を学校へは向けず、別の場所へと向けて歩を進めていた。
うさぎが向かった先は、有栖川宮記念公園である。子供たちが遊びに来る時間にはまだかなり早く、カップルがデートを楽しむ時間にもまだ早い。朝っぱらから公園で休息を取るビジネスマンもいないので、人気( はかなり少なかった。ざっと回りを見回してみたが、人の姿は見えない。)
「うん」
うさぎは満足そうに肯くと、噴水の方へと足を向けた。
「こらこら。学校にも行かないで、こんなところで何をしているのかな、ちみ( は?」)
「へ!? ま、まこちゃん!?」
投げ掛けられた言葉に驚いて振り向くと、腰に両手を当て、首をちょっと右に傾げたまことの姿があった。
「自分が囮になってディアナを誘い出そう……なぁんて考えてるだろ?」
まことは難解な推理を解いた探偵のような目で、うさぎの顔を見た。
「分かっちゃったんだ」
悪あがきをしても仕方がないので、うさぎはあっさりと認めた。まことは悪戯っ子の少年のような顔で、ニイッと笑う。
「付き合いが長いからね」
言いながら、うさぎに歩み寄ってきた。
「でも、よく有栖川公園( だって分かったね」)
「うさぎが行きそうな場所の目星くらい、簡単に付くよ。そんなに多くないからね、分かり易い」
「どうせあたしは、行動パターンが単純なオンナですよぉだ」
「拗( ねない、拗ねない」)
笑いで間を置いてから、
「……自分で当てといて訊くのもなんだけど、どうして有栖川公園なんだ?」
まことは尋ねた。
「まもちゃんとの思い出が一番多いから! ここにいれば、まもちゃんに守ってもらえそうな気がしたから……かな」
「はいはい、ご馳走様」
うさぎがお惚気( モードに入ったので、付き合ってられないといった風に、まことは会話を打ち切った。)
「まこちゃん。お願いがあるんだけど」
まことが周囲に気を配っていると、うさぎが真剣な顔で話し掛けてきた。
「なんだい、あらたまって?」
「あたし、ディアナさんを説得したい。だから、何があってもディアナさんを攻撃しないでほしいの」
「うさぎ……」
「お願い。だって、ディアナさんは、ルナのお母さんだよ?」
こちらに攻撃の意志がなかったとしても、ディアナは構わずに攻撃してくるだろう。彼女の狙いは、うさぎの命のはずだ。反撃しないということがどういうことか、うさぎにも分かっているだろう。それを敢えて行うといううさぎは、無謀としか言えない。しかし、うさぎのその真剣な眼差しに、まことは覚悟を決めて承諾するしかなかった。
「分かった。分かったよ、うさぎ。だけど、あたしは全力でうさぎを守る。どんな攻撃だって全て防いでみせる。だから、安心してディアナを説得しろ」
「うん、ありがとう。頼りにしてるね、まこちゃん」
「任せとけ」
まことは力強く、右腕に力瘤を作った。その瞳が何かを捉えた。
「来たよ、うさぎ」
ディアナが現れたようだ。
登校した直後のレイの教室に、ほたるが慌ただしく現れた。そのほたるの様子から「不吉」を感じ取ったレイは、すぐさま教室から廊下に出た。登校時間帯のT・A女学院の廊下は、往来する女学院生が多かったが、ふたりの会話に聞き耳を立てるような者たちもいない。友人たちと朝の挨拶を交わす程度だ。
「うさぎが学校に行ってない?」
「はい。さっき、新月さんから連絡があったんです。まことさんの姿も見掛けないと言ってました」
「う〜ん……」
唸りながら、レイは腕時計を見る。ブランドものの腕時計だ。文字盤とベルトは可愛らしいピンクで、フェイスには五石のダイアモンドと三石のルビーが華麗に配置されていた。高級品である。
「ショパールのパッピースポーツですね。いいなぁ、素敵ですね」
ほたるが腕時計を覗き見て、羨ましそうな声を上げた。
「頂き物なんだけどね」
レイが少し恥ずかしそうに耳朶を赤らめたので、ほたるは送った相手が誰なのか、詮索することをやめた。
「……この時間だと、うさぎの場合はちょっと微妙だけど。まこも行ってないって言うのは、気になるわね」
レイは表情を引き締め、話題を元に戻す。時刻は、まだ八時を少し回った辺りである。遅刻ギリギリのうさぎが、この時間に登校している方が不思議だ。とは言え、今日はいつもと違い、寝坊をしているはずもない。
「変なこと考えてなきゃいいんだけど……。念のため、フォボスとディモスに動いてもらいましょう」
「そうですね」
ほたるはそう答えてから、
「すみませんが、あたしは少しの間十番を離れます」
思い出したように付け加えた。
「頼もしい人たちのお出迎えね?」
「はい。何かあったら、連絡ください」
ほたるはそう言って、スカートのポケットから携帯電話型通信機を取り出して、レイに示した。
「お前がデートなどとふざけたことを言うから、何事かと思えば……」
三条院は呆れ顔だ。
「文句を言いながらも、ちゃんと呼び出しに応えてくるところを見ると、案外まんざらでもないじゃないの?」
せつながからかうような視線を向けると、仏頂面だったなびきは更に不機嫌になる。
「緊急時だったから、仕方なくあたしが連絡したが、次はないと思ってくれ。だいいち、よく考えれば、連絡するのはあたしである必要はなかったんだ。D・Jでも充分だ」
なびきはとても機嫌が悪い。
「あいつは駄目だ。素行不良なのが知れ渡っている。屋敷の者が取り次がない」
「よっぽど評判が悪いのね、D・Jは……」
せつなは苦笑いする。その悪名高き大道寺は、この場にはいない。彼には別の任務があり、同行していないのだ。
「アルテミスが帰ってきたわ」
せつなの視線を追うと、雑草の中から白い猫が姿を現した。ご自慢の白い毛が、埃( や泥で薄汚れてしまっている。)
「収穫は?」
即座になびきが尋ねた。
「毒蛇一匹と毒蜘蛛四匹。よく分からん珍獣が一匹」
「アルテミス……。生憎と今のあたしは、冗談に付き合える心境じゃない」
こいつは何を怒ってるんだと、アルテミスは目顔でせつなに尋ねた。せつなは無言のまま、目で三条院を示す。ああなるほどと、アルテミスは納得した。
アルテミス、せつな、なびき、三条院の四人は、ルナ救出のために東欧の山奥へと、プルートの転移能力を利用して移動してきた。日本に残しておく面子も必要だったし、別働隊として大道寺に動いてもらう必要もあったので、急遽三条院を招集することになった。その連絡を、なびきが行ったのだ。
「嫌がってたわりには、冗談でデートとか言っちゃって、けっこう楽しんでるみたいよ」
「ふむふむ」
「聞こえてる、せつな!」
ジョークがすぎたかなと、せつなは瞳をクルリとさせた。
「それで、状況は?」
「ああ、すまん」
問い掛けてきた三条院にアルテミスは詫びてから、自分が調べてきたことの報告を始めた。
『わたしの妹たち……』
それぞれ思い思いの場所で休息を取っていたカリュア、イーダ、シニス、ラクジットの四人の脳裏に、魔女ナイルの声が柔らかに響く。魔女ナイルは、彼女たち四人のことを「妹」と読んでいた。対して、彼女たちは魔女ナイルを「お姉様」と呼ぶ。親しみを込めてそう呼び合っているだけで、五人とも血縁関係があるわけではない。
『ネズミが近くに来ているわ』
魔女ナイルの声は、流れるように四人の脳裏を通りすぎた。
「ネズミ……。シルバー・ミレニアムの者共ですね」
確かめるほどのことではないのだが、カリュアは確認をした。
「ディアナはどうしていますか?」
ディアナのことが気になったイーダは、ナイルに問い掛けた。
『ディアナはわたしとの約束通り、プリンセス・セレニティの元へと向かったわ』
「連中は、ディアナの娘を取り返しに来たと言うわけね」
シニスはそう判断した。
「しかし、この場所が分かるとは……」
自分たちが潜んでいるこの場所に、シルバー・ミレニアムの者たちが現れたことの方が、ラクジットには驚きだったらしい。
『クイーン・セレニティの側にいた者ならば、わたしの封印されている場所を知っていても不思議はないでしょう。むしろ、知っている方が自然だと思います』
「もう一匹のネコ……。確か、アルテミスと言ったか」
カリュアはクリスタル・パレスの内情に精通していた。ルナとアルテミスのことも当然知っている。
『彼( の者の姿が見えませんが?』)
ナイルが尋ねたのは、自分たちに協力している「四人目の魔女」とやらのことだ。
「気配を感じません」
答えたのはシニスだ。面白くなさそうな顔をしている。
「お姉様のご友人だと言うことですが?」
『彼( の者が勝手にそう申しているだけ。わたしは、あのような輩) ( を友人に持った覚えはありません』)
「何者でしょうか?」
『さぁ……。わたしたちを利用して、何かを企てていることだけは間違いないわね。だけど、彼( の者の時を超越する能力は利用できます。手を組めるうちは組んでおくが得策。でもね、わたしは彼) ( の者を信用しているわけではないわ。それだけは、分かっていて』)
「はい、お姉様」
四人は揃って答えた。
「護衛はひとりか、セレニティ」
うさぎの護衛が、まことひとりだったことに、ディアナは不審がった。どこかに仲間を潜ませておいて、不意打ちを掛けるつもりなのかもしれないと、周囲に油断なく視線を走らせる。
「ここは、あたしたちのふたりしかいないわ」
うさぎは安心させるつもりで言ったのだが、ディアナは警戒を解かない。
「ふん。セレニティの言うことなど、信用できるものか」
ディアナは吐き捨てるように言ったが、うさぎは諦めない。
「あたしは、戦うつもりはないの」
「じゃあ、どういうつもりだって言うのかしら?」
「話し合いに来たのよ」
「何を話し合うって言うの? あたしは、お前と話すことなど何もない」
ディアナは表情を緩めない。声も固いままだ。話し合いなど初めからするつもりはないという意志が、ありありと伝わってくる。それでもうさぎは、根気よく説得に努める。
「あなたの誤解を解きたいのよ!」
「何が誤解だと言うわけ? あなたが禁断の恋に溺れて世界の秩序を乱し、滅亡に追いやるきっかけを作ったことも誤解だとでも言うつもり?」
「そ、それは……」
うさぎは言葉を失った。
「そんなことを持ち出して、今のお前に何の関係があるって言うんだ!?」
それに対して反論したのはまことだった。シルバー・ミレニアムのことは、彼女たちの間には直接関係のないことだ。うさぎは、ルナのことでディアナと話し合いたいだけなのだ。
「あるわよ! シルバー・ミレニアムが滅亡しさえしなければ、任期を終えたルナはマウ星に戻って来れた。こんな時代に送り込まれることもなくね」
「……!?」
「お前がいると、ルナが故郷に帰れない。だから、あたしがこの場でお前を抹殺する!」
言うが早いか、ディアナは右手から衝撃波を放った。まことは素早くジュピターに変身するとうさぎの前に躍り出て、電撃で衝撃波を粉砕した。
(うさぎ……。変身をしない気か?)
チラリと後方のうさぎの姿を確認してから、ジュピターは思った。変身をするということは、戦う意志があると相手に思わせてしまう可能性がある。だからうさぎは、あくまで戦う意志がないことを見せるために、断固として変身をしないつもりなのだ。
(困ったお姫様だ……。こりゃ、気合い入れて守らないといけないな)
ジュピターは決意を新たにし、奥歯を噛み締めた。うさぎは何でもない風を装ってはいるが、昨夜のダメージから完全に回復したわけではない。必死に隠しているが、立っているのも辛いはずだ。気付いているのは、ジュピターだけかもしれないが。
(説得できるのか……)
ジュピターは半信半疑だ。変身もしていないあの状態でディアナの衝撃波をまともに食らえば、うさぎは命を落としかねない。うさぎは文字通り決死の覚悟でディアナを説得するつもりなのだが、ディアナはうさぎの身体的事情までは知る由もない。
「潔( いと言うべきか、それとも愚かなだけか」)
ディアナは揶揄するような笑みを浮かべる。二度目の衝撃波も、ジュピターによって防がれてしまった。だからといって、ディアナに焦る気持ちはない。
「何故ルナを四守護神に加えなかったの? あの子を奴隷のように扱いたかったから?」
「あ、あたしは……」
「答えなさい、セレニティ!!」
うさぎは「あたしには、分からない」と答えようとしたのだが、ディアナの鋭い声に遮( られてしまった。ディアナの勢いに押されて、次の言葉をも飲み込んでしまう。四守護神の任命はクイーン・セレニティが行った。プリンセス・セレニティはその辺りの事情を何も知らされていない。ただ、転生した現在になって、ヴィーナスことプリンセス・アフロディアを四守護神として迎え入れることになったため、本来四守護神入りするはずだったセーラー戦士が、枠から漏れてしまった経緯があることを知った。しかし、それはアスタルテのはずだ。)
うさぎが思案を続ける間も、ディアナは言葉を続ける。
「転生をしても尚、ルナをあの姿のまま側に置くのは何故? お前は何様のつもりなの? 何故そうまでして、あの子を自分の元に縛り付けようとするの?」
それこそ、誤解である。そんなことは考えたことすらない。ルナが側にいることが、当たり前のように思っていた。それが思い上がりなのだと言われてしまうと、それは素直に認めざるを得ない。
うさぎは唇を噛み締める。何をどう説明したらいいのか、完全に分からなくなってしまった。ジュピターが振り返り、うさぎに顔を向けてきた。
うさぎ、無理だ。どうやってもディアナの誤解を解くことはできないよ。
声は聞こえてこなかったが、ジュピターの意志は伝わってきた。
戦ってはダメ。何かきっと、方法があるはずよ!
うさぎは心でそう語りかけながら、首を左右に振った。ジュピターなら、例えひとりで戦ったとしてもディアナに負けることはないだろう。だがそれでは駄目なのだ。力でディアナを屈服させては、全く意味をなさないのだ。
(どうしたらいいの……)
うさぎは険しい表情のディアナと相対しながら、この期に及んで途方に暮れてしまった。