鬼の序


 一目見て、高級車だと分かった。
 車の車種については、全く(うと)いうさぎだったが、一般の会社員が買えそうな車なのか、そうでない車なのかの区別はできる。
 火川神社の階段の下に停車している黒塗りの車は、紛れもなく超高級車だった。黒いスーツをきちんと着こなし、真っ白い清潔そうな手袋をした四十代半ばの痩せ型の男性が、黒塗りの車の脇に直立していた。見たところ、この超高級車の運転手だろう。持ち主ではない。
 場違いだ。
 と、うさぎは思った。
 麻布十番一帯は、確かに各国の大使館が多い。大使館勤めの外国人も、十番周辺に住居を構えているから、麻布十番の住民は多国籍軍である。大使館への来訪者も多いから、高級車を見掛けることは特に珍しいことではない。しかし、この高級車が停車しているのは、火川神社の前である。道路を挟んで向かい側にはアルゼンチン大使館があるのだが、こちらに用事があるのだとしても、火川神社の階段下に停車しているのは変である。大使館の敷地内に、訪問者用の駐車スペースがあるはずだ。
 直立したまま、電池の切れたロボットのように動かなかった運転手が、僅かに頭の向きを変えた。
 火川神社の階段を落ち着いた足取りで、ひとりの紳士が降りてきていた。どこかで見たことがあるような気がする顔だったが、すぐには思い出せなかった。グレーのスーツを上品に着こなし、堂々とした物腰だった。
 紳士が階段を降りきったことを確認すると、運転手は素早い動作で、左の後部座席のドアを開けた。紳士が後部座席に腰を落ち着けると丁寧にドアを閉め、車の前方を回って右側に回る。運転席のドアを開け、その運転手はシートに腰を下ろした。キーを回してエンジンを掛ける。エンジンは一発で掛かった。右のウインカーが点滅し、超高級車は文字通り滑るように走り出した。
 うさぎは超高級車のテールランプを横目に、火川神社の境内へと向かう長い階段を上った。

 階段を上がってきたうさぎに対し、レイはいつになくキツイ目を向けた。
「?」
 何事かと、うさぎは首を捻った。ここ数日、レイを怒らせるような間抜けなことをした覚えはない。
 階段を上がってきたのがうさぎであると分かると、レイはすぐに笑顔を作って、
「珍しいわね。今日はひとり?」
 と、柔らかい口調で尋ねてきた。いつものレイの口調だった。
「亜美ちゃんにフラレちゃって……。まこちゃんはバイトだし」
「美奈は?」
「風邪ひいて、きのうからお休み」
「ウソぉ……。最近の風邪は、バカにも感染(うつ)るの!?」
「まもちゃんとおんなじこと言ってる」
 うさぎはクスリと笑う。
「じゃあ、うさぎも気を付けないと!」
「まもちゃんとおんなじこと言ってる」
 今度はムスッとして言った。
 火川神社の境内は、いつも静かで落ち着く。レイが毎日欠かさず丹念に掃除をしているので、ゴミひとつ落ちていない。
「そうだ。さっき、下に凄い高級車が止まってたけど」
 思い出したように尋ねると、レイは僅かに表情を曇らせた。
「ええ、ちょっと、お客さんが来てたのよ」
 レイはいつになく、元気がないように感じられた。レイのその元気がない理由が、グレーのスーツを着た紳士が訪問したことによるものだとうさぎが気付くのは、もう少し後になってからだった。
 その日のレイは、どこか悲しげで、触れたら壊れてしまいそうなほど、(はかな)げだった。

「レイのやつ、最近元気なくないか?」
 馴染みのメンツで昼食を取っているとき、まことが話を切り出してきた。
「うん、そうね。あたしもちょっと気になってたんだけど……」
 サンドイッチを口に運ぶ手を休め、亜美は真顔になって答えた。
「えーっ。そう!? あいつ、きのううちに電話掛けてきて、あたしに散々嫌味言ってたけど? 声は元気そうだったよ? いつもと変わんない感じ」
 三日ぶりに登校してきた美奈子が、もぐもぐと口に食べ物を入れたまま、話に加わってきた。
「これって、言っちゃっていいのかなぁ……」
 なるちゃんが、遠慮がちに言葉を漏らした。
「なぁに?」
 うさぎが聞き返すと、
「実はね。おととい、レイちゃんうちの店に来たのよ」
 僅かに言い淀みながら、なるちゃんは話した。なるちゃんの家は高級宝石店だった。学生の身分で手が出せるような安物の宝石や、ましてやイミテーションの(たぐい)は置いていない。
「ひとり……ってことはないよね?」
 訊くのを躊躇ったようなひかるちゃんの問い掛けに、なるちゃんは戸惑いがちに肯く。
「実業家風の男の人と一緒だった。ネックレスを買ってった」
 なるちゃんの表情からは、かなり高級なネックレスを買っていったのだと読み取ることができた。
「青年実業家!?」
「やるじゃん! レイちゃん!」
 うさぎと美奈子が、目の色を変えた。
「でもね……」
 なるちゃんが、更に表情を曇らせる。
「レイちゃん、楽しそうじゃなかった……。男の人の方はね、凄く楽しそうだったよ。だけど、レイちゃんは違うと思った。あたしがいるのも、気が付かなかったみたい」
「レイは男嫌いだからな。妙っちゃ、妙だよな」
「なるちゃんから見て、どうだったの? その実業家って人」
 ひかるちゃんが尋ねた。確かに気になることである。全員が、なるちゃんの感想に注目して耳を傾ける。
「お金持ちのボンボンって感じ。ヘラヘラ笑ってて頼りなさそうだった。身なりはきちんとしていたけど、服の趣味はあんまりよくなかったな。レイちゃんには、似合わないかな」
「なんでそんな人と、なるちゃんのお母さんのお店に行ったのかしら……」
 亜美は首を捻る。レイが男性とふたりきりでいるということも信じがたいが、そういった宝石店のような店に行くことも信じられない。レイは余程のことがないかぎり、アクセサリーの類を身に付けない女の子なのだ。
「レイちゃんが元気がないことと、何か関係があるのかしら……」
 亜美はバスケットに、サンドイッチを戻しながら言った。