大事故


 エレベーターのドアが開いた。
 スーツに身を包んだ、数人のサラリーマンをすり抜けるようにして、少年がエレベーターから駆け出してきた。
 小学校の高学年、歳は十歳ぐらいだろうか。いささか、くたびれたランドセルを背負っている。ランドセルを背負っていることから、学校から直接ここへ来たのだろうということが分かった。
 少年は、真っ直ぐに廊下を駆けてゆく。このビルは初めてではないのだろう。フロアはけっこう広いのだが、迷っている様子はなかった。
 廊下を歩いていたサラリーマンが、ランドセルを背負った少年の姿が珍しいのか、立ち止まって少年を目で追った。が、すぐに何事もなかったかのように、再び歩き出した。
 少年は、ある会社の前で止まった。コンピュータ・ゲームの製作会社のようだった。
 全面曇りガラス張りの、シンプルなドアである。
 人の動きはあまりないのか、曇りガラスの向こうでは、人が動いている影が見えない。
 少年はノックもしないでドアを開け、その会社に入っていった。
 社員が一斉に、入口に目をやった。
 少年は、にこりと笑ってみせた。
 中にいる社員たちも、その小さな来訪者に、暖かい笑顔を向けた。
「たける君、今日は早いね」
 中年の社員が声をかけた。
「今日は土曜日だから………」
 たけると呼ばれた少年は、歩きながら面倒臭そうに答えた。
「そうか………。今日は土曜日か………」
 中年の社員は、今更ながらに驚いてみせた。
 ああ、そうか………、という声も、奥の方から聞こえてきた。
 曜日に関してルーズな人間が、多い会社のようだった。仕事と関係があるのかもしれない。連日徹夜の作業が続いているのだろうか。眠たそうな社員も多い。
 たける少年は、そんな社員たちのことは気にも止めず、奥のほうへと急ぎ足で向かっていった。
「パソコン使わせてね」
 通りすぎるとき、たける少年は中年の社員にそう言った。
 奥の一角に、最新型のパソコンが置いてあった。少年の目当てはそれだった。
 たけるはパソコンの横にランドセルを置いてから、まわりをキョロキョロと見回した。
「お父さんは………?」
 柱の陰から顔を覗かせて、たけるは先ほどの中年の社員に訊いた。
「ちょっと出かけてるよ。あと一時間ぐらいは戻らないと思うけどな………」
 中年の社員は、壁に掛けられている時計を見ながら答えた。
「ふぅぅん………」
 しょうがないや、といったふうに口をすぼませると、たけるはパソコンの前の椅子に腰を降ろした。
 若い女子社員が、たけるのためにジュースを運んできてくれた。美人のお姉さんを一瞥しただけで、少年の興味は、既にジュースの方へと移動していた。美人のお姉さんが運んできたジュースが、たけるの大好物のミックスジュースだったからだ。
 たけるは嬉しそうにそのジュースを飲みながら、パソコンの電源をONにした。

 駅の階段を、足早に降りてきた有坂優太郎は、腕時計を見やった。会社には二時間ぐらいで戻れる予定だったのだが、その倍の時間がかかってしまった。客先との打ち合わせが、思ったよりも長引いてしまった。
 額に浮いた汗をハンカチで拭くと、大きく息を吸い込んだ。
 急いで戻らなければならない。今頃はパソコン好きの息子が、会社の最新型のパソコンをいじりにやってきているはずだ。へたにいじって、夕べから徹夜で作業したプログラムを消されてはたまらない。
 うっかり、フロッピィ・ディスクに落としておくのを忘れていたことに、客先にいるときに気付いた。そのことを思い出してからはもう、気が気ではなかった。打ち合わせの内容も、殆ど上の空だった。
 駅から会社までは、タクシーを拾うほどの距離ではなかったため、有坂氏は走ることにした。
 陽が照っているわけではなかったが、妙に暑い日だった。
 スポーツがあまり得意ではない有坂氏でも、自分の会社までは、走れば五分程で着く。三メートル程先の角を曲がれば、会社のあるビルが見えるはずだった。
 そのビルが視界に入ってきたとき、有坂氏は信じられない光景を見てしまった。
 十階建てのビルが何の前ぶれもなく、突然大音響とともに崩れ落ちたのである。
「な………」
 有坂氏はあまりの出来事に、一瞬我を失った。
 今崩壊したのは紛れもなく、これから向かおうとしていた、自分の事務所のあるビルだったのだ。
 怒号と悲鳴とが入り交じって、有坂氏の耳に飛び込んできた。
「ガス爆発か!?」
「いや、爆弾テロだ!!」
 煙のあがっているビルを指さしながら、やじ馬たちが口々に叫んでいる。
 怪我人に肩を貸している、学生の姿が見えた。
「たける!!」
 有坂氏は我を忘れて、どす黒い煙をあげるビルに走って行こうとした。
「あんた、危ないよ!!」
「死にたいのか!?」
 まわりにいた人々が、必死に有坂氏を制止している。
「放してくれ!!」
 有坂氏は夢中だった。あのビルには、自分の会社がある。多くの仲間たちがいる。そして、自分の息子もいるまずだ。助けに行かなくては………。
 有坂氏は無我夢中に、ビルへ向かおうとする。
 その有坂氏を、必死に止めようとしている人々もいた。
 ビルの外壁が剥がれ落ち、地面に激突する。とても近付ける状態ではなかった。死にに行くようなものである。
 どす黒い煙は、もくもくと、青い空に向かって上がってゆく。
 有坂氏はなおも、制止する者たちを振り切って、ビルの方へ行こうとしていた。
 爆発は一度きりだった。
 火の手は上がっているのだろうか。煙の勢いの方が物凄くて、下からは確認出来なかった。
 やじ馬たちが、口々に何か叫んでいる。
 ビルを指さして泣き叫ぶ、若いOLの姿があった。
 茫然と立ちつくしている、中年のサラリーマンの姿があった。
 遠く鳴り響くサイレンの音が、幻聴のように耳に届いていた。