VSヒアデス
「随分と手間取っているじゃないか」
上空の強い風に髪を乱されながらも、バベルの塔と真っ直ぐに向き合っていたヒアデスの右横に、音もなくハスターが現れる。
少し前にハスターの“気”を感じ取っていたヒアデスは、その唐突な出現にも特に驚きもしない。顔を覆い隠していたベールが強風によって巻き上げられたが、そこから覗けた彼女の表情に変化はなかった。
「こんな手の込んだことをせずとも、他に幾らでも方法があったろう」
「ご不満ですか?」
「いや。俺の望む結果にさえなれば、過程などどうでもいい」
「安心致しました」
ヒアデスは僅かに右に体の向きを変えると、柔らかく腰を折った。そしてまた、正面に向きを正す。
「絶対に破られることはないと自負していた精神波バリアが破られたのです。敵は、さぞかし動揺していることでしょう」
「バリアを強引に破ると見せかけて、その実、術者の方の精神を攻撃するなぞ、きゃつらも考えつかなかっただろうな」
ハスターは胸の前で腕組みをし、満足そうな笑みを浮かべた。
「術者は当分の間、バリアは張れぬでしょう。この間に、塔を墜としますか?」
「星の戦士たちはどうした? “船”が来ていたようだが……」
「つい先程、二名が現れましたが、即座に退けました。“船”も撤退しております」
ヒアデスは事も無げに言った。
「ほう、退けたか……。シルバー・ミレニアムの戦士程度では、お前とまともに戦うことはできぬか」
ハスターはとても満足そうだった。目を細め、見るとはなしにバベルの塔へ視線を向けた。ヒアデスは淡々と続ける。
「塵にできなかったことは、残念でなりませぬ」
「逃げ足だけは速かったと言うことか?」
「“船”に邪魔をされました。我には“船”は沈められませぬ」
「そうだったな」
ハスターは皮肉ったような笑みを浮かべた。
「おかしいですか?」
「お前が故意にトドメをささなかった理由が、他にあるのではないかと思ってな」
「お戯れを。何故、そのようなことを……」
「他意はない。気にするな」
この話題はこれで打ち切りだと言う風に、ハスターは声に僅かに気持ちを乗せた。ヒアデスにはそれで伝わったらしい。それ以上の言及はしてこなかった。ややあって、
「それでは塔を破壊いたしましょう」
顔を真っ直ぐにバベルの塔に向けて、ヒアデスは言った。
「バリアが消滅した!?」
ギルガメシュは、驚愕とも動揺とも取れる表情をしていた。絶対に破られることはないと自負していた精神波バリアが、目の前で破られてしまったのだから無理もない。信じるも信じないも、今、自分の目で見えていることが真実なのだ。
「世の中に、“絶対”なんてことはないって言ういい教訓だな」
「エンキドゥ! “お姫さん”の様子を見て来い!」
ノスフェラートの皮肉たっぷりの言葉も、ギルガメシュの耳には届いていないようだった。バリアが破られたことが余程ショックなのだろう。それは、エンキドゥも同じだった。
「エンキドゥ!!」
惚けたまま全天球スクリーンを見上げているエンキドゥに向かって、ギルガメシュは苛立ち混じりに怒鳴った。エンキドゥはビクリとして、何事かという風に顔をギルガメシュに向けてきた。先程のギルガメシュの指示は、どうやら彼には聞こえなかったらしい。ギルガメシュは大きくひとつ深呼吸をして自らの気持ちを落ち着かせながら、
「“お姫さん”の様子を見てきてくれ」
努めて穏やかな口調で告げた。
「う、うん」
エンキドゥは小刻みに肯くと、迅速に退室していった。その直後に、バベルの塔はまた大きく揺らいだ。
「おい、水巫女! タンプリエはどうしたんだ!? バベルが攻撃を受けているっていうのに、連中は傍観か?」
「相変わらず音沙汰なしね」
半ば諦めたような口調で、マーキュリーは答えた。先程から何度も通信を試みているのだが、タンプリエからは何の返事もなかった。「撤退する」との言葉を残し、その後消息は不明だった。
「ちっ……。タンプリエのやつ、いったい何があった……?」
自問するように、ノスフェラートは呟いた。彼には、タンプリエが自分たちを残して撤退してしまったことの方が、信じられない事実のようだった。ノスフェラートら、シルバー・ミレニアム残党とタンプリエの間にどういう契約がされているのかマーキュリーには分からないが、このノスフェラートの様子から推し量ると、タンプリエが自分たちを置いて撤退してしまったことが、かなり異常な事態であると言うことが分かる。
仲間の身に何か起こった?
タンプリエ撤退前に見た、あの太陽を思わせる熱球が関係しているのではないかと、マーキュリーは考える。更に思案を巡らせようとしていた時に、エンキドゥの切迫した声がスピーカーを通して流れてきた。
「ギルガメシュ!! “お姫様”の意識が飛んでしまっている! だから、バリアが維持できなくなったんだ」
「意識が飛んでいるだと……!? 無事なのか?」
「うん。だけど、この分だと当分目覚めない。目覚めてもバリアが張れるかどうか……」
「くっ……」
ギルガメシュは唇を噛んだ。万事休すである。幾ら防衛のためのシステムがあるとは言っても、セーラー戦士相手にどこまで持ち堪えることができるのか分かったものではない。
再びバベルの塔が激しく揺れた。防衛システムは作動しているはずなのだが、やはり完全ではないらしい。塔が破壊されるのは、最早時間の問題だと思われた。
「水巫女。脱出するぞ」
「え?」
「命あっての物種だ。こいつらに付き合っていたら、こっちの身も危うい」
「だけど、ギルガメシュに会いに来たんでしょ?」
「それはそうなんだが、水巫女が死んじまったら元も子もない」
マーキュリーは二の句が告げなかった。自分がノスフェラートに付いてきたことは、間違いだと気付いた。彼の言うとおり、自分はあの場で待っているべきだったのだ。強引に付いてきてしまったことが、結果的に彼の足を引っ張っているのだとマーキュリーは悟った。
「急ぐぞ」
ノスフェラートが急かしてきた。しかし、マーキュリーとしては、彼らを見捨てることができない。
「ギルガメシュ。あなたたちも一緒に!」
「駄目だ」
きっぱりと言う感じで、ギルガメシュは応じてきた。
「俺たちは、ここを動けない。仲間がバベルの塔を目指してやって来る。俺たちがこの場を離れてしまっては、全体の計画に支障が出ることになる」
「呆れるほどの馬鹿だな。こんな状況で仲間とやらが無事に辿り着くもんか」
ノスフェラートは、両手を大きく広げて呆れ返った。挑発したつもりなのだろうが、ギルガメシュは真面目に受け止める。
「それでも、俺たちはここを動くわけにはいかない。俺たちが誘導してやらねば、仲間が遭難する」
「こんな馬鹿に付き合う必要はない。行くぞ、水巫女」
ノスフェラートは先に立って、部屋を出て行こうとする。が、マーキュリーが動かないので、ふて腐れたようにクルリと身を捻り、
「水巫女!」
苛立たしげに急かした。
マーキュリーはギルガメシュを見ていた。何かを探り当てようとしている瞳の色だった。
「仲間を誘導できさえすれば、別にここである必要はないのよね?」
「ん? まぁ、そうだが……」
「バベルの機能を他に移すことはできないの? ここは電波塔なんでしょ? 塔を使わなくても、電波を送信する方法は他にもあると思うけど?」
「無理だ。持ち歩けるほど小型ではない」
「移動もできないの?」
「動かすことは可能だ」
「ノスフェラート」
ギルガメシュとの会話を一端打ち切り、マーキュリーはノスフェラートに顔を向けた。
「タンプリエちゃんは無理かしら?」
ノスフェラートは呆れたような表情を作ったが、すぐに答えてくれた。
「できると思う。だが、連絡が取れないんだろう?」
「あなたが捜してきて」
「なに!?」
「そんなに遠くへは行ってないと思うわ」
「あのね……。のんびりと捜している時間はねぇぞ。敵さんは目の前にいるんだ」
「だから、急いで捜して欲しいの。時間はあたしが稼ぐわ。ギルガメシュは、その間にバベルの機能を移す準備をしていて」
強い口調で自分にそう言った後、体を巡らせてギルガメシュに指示をするマーキュリーの華奢な背中に、ノスフェラートは声を投げ付けるようにする。
「水巫女ひとりで、やつと戦おうって言うのか!? 無茶だ!」
「余計な心配をしないで。倒そうとは思わない。あたしは、時間を稼ぐと言ったのよ」
マーキュリーは背を向けたまま答えてきた。その小さな背中は、無茶は分かっていると語っていた。
「しかしだな……」
「あたしを死なせたくなかったら、一秒でも早く、タンプリエちゃんを見付けて来て」
言うが早いか、マーキュリーは身を翻( していた。)
「だけどよ。どこをどう捜せばいいってんだよ……」
ヒラリと翻ったミニスカートの裾を目で追いながら、ノスフェラートはぼやいた。自動ドアがスルリと横にスライドし、マーキュリーのお尻はドアの向こうに消えていってしまった。ノスフェラートは深い溜息を付いた。
「見えなかったのが、そんなに残念だったか?」
「ああ……。って、違う!」
茶化してきたギルガメシュに、ノスフェラートは食って掛かった。が、言葉では茶化しただけで、ギルガメシュは真剣な表情をしていた。
「案ずるな。“船”が去った方向なら分かっている」
「何だと!?」
「お前たちが“船”でここまで来たことは承知している。当然、“船”の動向もチェックしている」
「抜かりはないってことか」
「ただ、あまりにも急速にこの空域から離脱していったので、詳細までは分からない。辛うじて、方向だけは確認できた。だから、まだ近くにいるのかどうかは分からんぞ?」
「歩いていける距離にはいなさそうだよなぁ……」
「楽をしようと思うな」
「ちっ……。しゃーねーか」
身を翻したノスフェラートの背中に、
「持っていけ」
と、ギルガメシュはイヤフォンとマイクが一体となっている小型通信機を投げて寄越した。耳に引っ掛けて使用するタイプだ。これならば邪魔にならない。
「こちらの状況は、随時知らせる」
「分かった。脱出の準備はしておけよ」
外に出たマーキュリーは、ギルガメシュが無能な指揮官ではなかったことを知る。絶対的な自信を持っていたバリアが破られ、バベルの塔が直接攻撃を受けたことで動揺して、我を見失っていると考えていたのだが、困惑しながらも彼はやるべきことはやっていたのである。つまりは、バリアの内側に侵入してきたバッタ人間たちの掃討である。
マーキュリーはヒアデスと戦う前に、まずはバッタ人間たちを一掃しなければならないと覚悟していたのだが、その覚悟は無用だった。塔の外に出てみれば、呆れるくらいの静寂が待っていた。いったい、どういう方法を取って一掃したのか分からないほど、バベルの塔の周囲は穏やかだった。まるで、何事もなかったかのような風景を呈している。戦闘行為が行われた様子は微塵もない。しかし、確実にバッタ人間たちは消滅している。一体残らず。
「熱量も感じない……。どういうこと?」
ゴーグルを装着し、周囲を観測したマーキュリーは、自分の見ている光景が信じられなかった。だが、いつまでも驚きに浸っている場合ではない。マーキュリーのゴーグルは、上空に浮遊するふたつの人影を捉えていた。ひとつはセーラーヒアデス。もうひとつは、マーキュリーにとっては未知の相手だった。芥子色のスペーススーツのようなものを着込んだ大柄な男だった。敵は二者。相手はヒアデスだけだと考えていたマーキュリーにとっては、これは大誤算である。
だが、怯んでいる場合ではなかった。今は時間を稼がなくてはならない。
「よし!」
萎んでしまった気持ちを奮い立たせるように、一声気合いを掛けると、マーキュリーは意を決して上空へと飛び上がった。
ふたりと対峙する。
「また、セーラー戦士か」
男はマーキュリーを見ると、「また」と言った。うざったるそうに目を細める。自分以外のセーラー戦士と、既に遭遇していると言った口振りだった。この空域にいる(いた)セーラー戦士は、自分以外はウラヌス、ネプチューン、アスタルテの三人だ。
「先程退けた連中のひとりか?」
男は、傍らのヒアデスに首を捻るようにして顔を向けた。今度は「退けた」と言った。マーキュリーの心臓の鼓動が早くなる。三人全員か、それともふたりか。とにかく、ヒアデスは自分の仲間と交戦して勝利しているらしい。しかも、男の言葉から、ふたり以上と交戦したらしいことが伺い知れる。
「先の者たちとは違います」
ヒアデスは静かな口調で答えた。その答えの中には、マーキュリーが求める情報は含まれていなかった。彼女は、誰と戦ったのだ?
「やる気満々らしいぞ。あのお嬢さんは」
男はマーキュリーをチラリと見てから、ヒアデスに言った。
「そこなセーラー戦士。死にたくなくば、直ちにこの場から去るがいい。我は、去る者は追わぬ故」
「仲間と戦ったのね?」
無礼な物言いだったが、マーキュリーは怒りを抑えて尋ねた。ひとまずは、情報収集だ。
「ふたりを相手にした。セーラーウラヌスとセーラーアスタルテと名乗った」
「ふたりはどうなったの?」
「手傷は負わせたが、仕留めるには至らなかった。追うがいい。彼の者たちは“船”とともに其方へ去った」
ヒアデスは左手で真横を示した。マーキュリーから見て、右方向にタンプリエ共々逃亡したということらしい。
マーキュリーは歯痒かった。今の会話をノスフェラートに伝えたかった。今のノスフェラートは、手掛かりが全くない状態でタンプリエを捜しているのだ。この会話が伝われば、少なくとも捜索する方向の的を絞ることはできる。闇雲に捜すよりかは遙かに効率が良い。ギルガメシュが、タンプリエが去った方向まで確認していたなどとは考えてもいなかった。
「あたしを見逃してくれると言うの?」
マーキュリーは方針を変更した。寡黙のように見えたヒアデスが、思いの外会話をしてくれる。彼女との会話を引き延ばせば、戦わずして時間を稼ぐことができる。会話をすることは得意でないマーキュリーだったが、とにかく必死に言葉を探した。
ギルガメシュは、臍( をかむ思いで天球スクリーンを見上げていた。マーキュリーひとりに対して、敵はふたり。数的不利もさることながら、ノスフェラートの話では彼女は戦闘向きではないと言う。あの場面では、咄嗟に彼女の意見に従ってしまったが、間違いだったと感じた。明らかに無謀な作戦だった。)
「エンキドゥ。準備はどうか?」
通信ボタンを押して、ギルガメシュはエンキドゥに呼び掛けた。彼は、バベルの塔の中枢システムを外に運び出す作業をしているはずだった。
「こっちはだいたいいいよ。後は、“お姫様”を連れてくればいいだけ」
「分かった。“お姫様”は俺がそこへ運ぶ。バベルの防衛システムは、そこからでも遠隔操作できるな?」
「もちろん」
「なら、マーキュリー殿が戦闘状態に突入したら、彼女を援護しろ」
「今すぐ攻撃しなくていいの?」
「彼女は頭の良い女性だ。闇雲に戦っても勝負にならないことを理解している。今は時間を稼いでいる」
超好感度の指向性マイクを使って、マーキュリーの会話は聞き取ることが出来る。ヒアデスから得た情報は、直ちにノスフェラートに伝えていた。
「ふ〜ん。そうなんだ……。ノスフェラートは何時来る?」
「アテには出来んな。雲を掴むような話だ」
方向だけ分かったとしても、それだけではそう短時間で発見できるとは思えない。
「じゃあ、どうする?」
「マーキュリー殿が戦闘状態に突入したら、防衛システムをオートにして、この場から撤退する」
「え!? オートなんかにしたら、システムはマーキュリーまで攻撃しちゃうよ?」
「やむを得ない。彼女には、我々の為に盾となってもらう」
「でもさ、バベルのシステムをどうやって運ぶのさ? “お姫様”だっている」
「“ピクシー”があるだろう? アレで運ぶ。俺とて万が一のことを想定していなかったわけじゃない。“ピクシー”にユニットを詰めるスペースは確保してある」
「ギルガメシュ? まさか、初めからそのつもりで、ふたりを利用したの?」
「バリアが破られたのは想定外だったが、俺たちが脱出する際は、ふたりは利用できると考えていた。だから、お前に行かせてふたりを塔内に招じ入れた」
「ギルガメシュ……」
「無駄口は終わりだ。マーキュリー殿はそれ程時間を稼げない。急げ」
俺たちは、ここで死ぬわけにはいかない。ギルガメシュはそう付け加えた。マーキュリーとヒアデスのやり取りに、変化が訪れたのだ。
「我は弱き者には手は出さぬ。失礼ながら、そなたは先の者たちと比べ戦う力に劣るとお見受けする。そなたでは、我の相手は務まらぬ」
ヒアデスは淡々とした口調で言ってきた。
「そうね。戦闘能力に関しては、あなたの言う通りよ」
マーキュリーの心に、棘が突き刺さった。
「何か違うことがあると申すか?」
「相手が務まるかどうかは、やってみなければ分からないと言うことよ。あたしは、“諦め”と言う言葉が、一番嫌いなの」
自分でも思いも掛けぬ言葉を口走っていた。これでは「会話」は続けられない。戦闘に突入してしまう。「他と能力が劣る」と指摘されたことに腹を立ててしまった自分がいた。負けん気の強さが、こんな重要な局面で、自らが立てた計画を狂わせてしまった。だが、口をついて出てしまった言葉は、もう取り消しが出来ない。間違えだと分かっていても、消しゴムで消して修正することは出来ない。
「諦めることは、恥ではないのだがな……」
ヒアデスは小さく呟いたが、マーキュリーの耳には届かない。
「名を聞いておこう。我が名はセーラーヒアデス」
ヒアデスからは、強い闘気を感じた。もう後戻りは出来ない。
「セーラーマーキュリーよ」
マーキュリーは覚悟を決めた。
「肝心なところでキレるなよ、水巫女ぉ……」
ノスフェラートは、全身から力が抜けていくような感覚を覚えた。マーキュリーとヒアデスの会話は、親切にもギルガメシュはダイレクトで転送してきてくれる。そのお陰で、随時彼女の状況を知ることが出来たが、その反面、徐々に焦りも広がっていた。
ノスフェラートは後方を仰ぎ見る。バベルの塔が霞んで見えた。この距離では、さすがにマーキュリーの姿を見付けることは出来ない。
「地図さえあれば、もう少し的を絞り込めるんだが……」
顔を正面に戻し、逸る心を抑えながら、ノスフェラートは両目に全神経を集中させて飛空艇タンプリエの派手な船体を捜す。一時徹底をしたと言っても、自分たちが残っていることはタンプリエは百も承知しているはずだ。だから、それ程遠くには行っていない。
「この辺りが、ちょうど良い距離なんだがな」
バベルの塔から遠からず近すぎず、それでいて船体を隠すことが出来る場所に、タンプリエは息を潜めている。だが、彼女は“かくれんぼ”の天才である。漠然と捜していても、なかなか見付けることは出来ない。見えてはいても、見逃してしまうかもしれないのだ。
「近くまで行けば、タンプリエの方が俺を見付けてくれると思うんだが……」
「その通りよ」
ノスフェラートのぼやき終えると同時に、唐突に目の前に人影が現れた。セーラー戦士だった。
(どう戦う?)
マーキュリーは自問した。会話で時間稼ぎをすることは、もう出来ない。感情を抑えることが出来なくて、自らその機会を潰してしまった。しかし、こちらの出方を伺っているのか、ヒアデスは一向に仕掛けてくる気配を見せない。傍らの名も知らぬ男性の方は、そろそろ苛つき始めている。ヒアデスが手を出さなくとも、男性の方が仕掛けてきそうな雰囲気だった。
ならば、不意打ちで先手必勝と行きたいところなのだが、それは恐らくヒアデスに読まれているだろう。その証拠に、男性には付け入る隙があるが、一見自然体に見えるヒアデスには、実は全く隙がない。
(ウラヌス( とアスタルテ) ( のふたりをあの短時間で退かせたというのが本当なら、まともに戦ってはあたしに勝ち目はない))
知らず知らずのうちに、額に汗が滲み出てきた。喉がカラカラに乾いてきた。
「ヒアデスよ。貴様が戦わぬのなら、俺がこの娘の相手をするぞ? そろそろ飽きてきた」
抑揚のない声で、男性は傍らのヒアデスに告げた。ハスターは行動派だ。どっしり構えて後方から指示を出すタイプではない。常に自ら先陣を切るタイプだった。確かに、この状況では退屈してしまうだろう。
「ハスター様が、自らお手を汚すこともありますまい。我にお任せを」
男性の申し出を慇懃に断ると、ヒアデスは流れるような動作で手にしていた長槍を構えた。
マーキュリーはヒアデスが長槍を構えると同時に後方に退き、充分な間合いを取った。退きながら、シャボン・スプレーを放つことも忘れない。ゴーグルのスイッチをオンにする。ゴーグルを通して、霧の中のふたりの様子を探る。
「え!?」
正面に、人影がひとつしか確認できない。体格からすると、ハスターと呼ばれた男性の方だ。ヒアデスの姿が正面にない。
「動きが遅い」
声が聞こえたと同時に、背中に激痛が走った。ヒアデスは背後にいた。槍の柄の方で、マーキュリーの背中を突いたのだ。
「あたしの位置が、正確に分かるなんて……」
目眩ましに放ったシャボン・スプレーが、全く効果を発揮していないことに、マーキュリーは驚きを隠せない。
「そなたは何かしたのか? 生憎と、目眩ましのような小賢しい真似は、我には効果は皆無」
マーキュリーはここで初めて、ヒアデスの両目が閉じられたままであることに気付いた。
「まさか、心眼!?」
「左様」
ヒアデスはあっさりと認めた。心で物事を感じ取っているのならば、確かにシャボン・スプレーのような視覚を遮るだけの目眩ましは意味がない。
マーキュリーが困惑していると、ヒアデスは更に身を寄せてきた。咄嗟のことだったので、どうしようもなかった。この距離で攻撃を受けたら躱( せない。しかし、ヒアデスは攻撃をして来なかった。そればかりか、意外なことを口走る。)
「この場から逃げよ、水巫女殿。我もこれ以上、時を稼ぐことは叶わぬ」
「あたしが、分かっている?」
ヒアデスがその気であったなら、最初の一撃で決着が付いていたはずだ。刃の方で貫かれていれば、自分は即死だった。ヒアデスは、自分が四守護神のセーラーマーキュリーであることを知った上で、手加減を加えてくれたのである。理由はまだ分からないが、ヒアデスは端から自分を倒すつもりはなかったのだと感じた。
「何故?」
疑問がそのまま言葉として零れた。
「にわかに信じてもらえぬやもしれませぬが、我らはそなたらの敵ではありませぬ」
「我ら? あの男性も?」
正面のハスターを見据えながら、マーキュリーは問う。
「いや……」
ヒアデスは答えながら、背後からマーキュリーを抱え込むようにして、槍の柄の部分を使ってマーキュリーの首を締め付ける。が、それはスタイルだけで、本当に締め付けているわけではなかった。マーキュリーに密着することで、自分たち以外には会話が聞き取れないように配慮したのだろう。
「ハスター殿は読心術を会得しておる故、水巫女殿は唇を動かさぬように願います」
ヒアデスから、強い口調で制されてしまった。腹話術など出来ないマーキュリーは、結果的に質問が許されない形となった。
「ハスター殿は水巫女殿らにとっては敵となります。故にこのような方法を取っております。ご無礼、お許しください。今、力を緩めます故、振り解いてこちらをお向きください」
ヒアデスはその言葉通り、力を緩めた。マーキュリーは喉元を締め付けていた槍の柄を振り解き、言われた通りに体を巡らせてヒアデスと向き合った。ハスターには背を向ける形になった。これでヒアデスと会話が出来る。
「あたしの仲間の無事が確認できるまで、あなたの言葉を信用することはできないわ」
マーキュリーはキッパリという口調で言い切った。あのタンプリエの緊迫した声は、演技とは思えない。ウラヌスとアスタルテの身に、何事か起こったことは想像に難しくない。
「もっともです」
ヒアデスは肯かずに肯定した。彼女は顔をベールで覆っているので、遠く離れているハスターからは表情は見えない。口の動きも読まれることはないが、動作をすれば分かってしまう。だからヒアデスは、槍を構え直して交戦中であることを見せながら、マーキュリーには言葉だけで肯定したのである。
「彼の者たちは我の言葉に耳を貸そうとしませなんだ故、やむなく手傷を負わせました。“船”に回収されました故、大事には至っておらぬはずです」
「それだけではあなたを信用できない。さっき、『我ら』と言ったわね? あなたには、仲間がいるの?」
「セーラープレアデスと申します。ですが、彼女は全ての事情を知っているわけではありません。彼女は、我が敵に寝返ったと考えているはずです」
「益々分からないわ」
「こちらにも事情があるということです。首尾良くこの場を離脱することが出来、セーラープレアデスと会うことが出来ましたれば、我らの抱えている事情の一端が見えるでしょう」
「セーラープレアデス……」
マーキュリーがその名を脳裏に刻み込むように反芻していると、ヒアデスはまた視界から消えた。
「おしゃべりはここまでです。衝撃波で弾きます。舌を噛まれませぬように」
ヒアデスはマーキュリーの背後に回り込んでいた。おっとりとしていて物静かに見えるのだが、その機動力はヴィーナスやウラヌスに匹敵するようだ。
マーキュリーは背中に強い衝撃を感じて、大きく仰け反りながら吹っ飛ばされた。バベルの塔の方に押し戻されるような格好となった。
反撃をしてみせようと振り向いたら、正面からまともに衝撃波を食らった。四肢が裂けんばかりの強烈な衝撃だった。先程背中に受けた衝撃とは全く異質で、凶悪なほどの殺気を孕んだ衝撃波だった。
マーキュリーは気を失う瞬間、ヒアデスの横にハスターの姿を見ていた。この衝撃波はハスターが放ったものだとマーキュリーが認識できたことが、ヒアデスにとっては幸運だったのだが、のちのちの展開など、今の彼女たちは知る由もなかった。
to be continued.
次回予告
うさぎ「あ、亜美ちぁん! 大変なことになってるけど!?」
亜美「あたしは大丈夫。だけど、ノスフェラートが……」
うさぎ「え? まさか、死んじゃうとか!?」
ノスフェラート「は!? 聞いてねぇよ、そんなの!!」
亜美「彼は、あたしたちを逃がすために……」
うさぎ「や、やっぱ死んじゃうんだ!」
ノスフェラート「死なねぇよ! 勝手に殺すなよ!」
うさぎ「次回美少女戦士セーラーマーキュリー。『ノスフェラート、愛に死す』 水の詩(しらべ)は、愛のプロローグ」
ノスフェラート「締めくくんなよ、勝手に!」
亜美「そのタイトルいいかも……」
次回「美少女戦士セーラームーン」贄色の帝国編
「新たに向かう先」
月の光は、愛のメッセージ...