ACT4 因縁  (Part29)


 新たに結界の張られた十番中学の敷地内に、四人のセーラー戦士は足を踏み入れる。
 一列縦隊の陣形。
 防御、遠隔攻撃と技の形態が多様なジュピターが先頭。先制攻撃役も担う。
 ジュピターのガードの後ろで、ナビゲーション及び司令役を務めるマーキュリー。
 三番目に、癒し手かつ切り札のセーラームーンを置き。
 ジュピター同様攻撃防御力が高いヴィーナスが、死角からの攻撃に応じられるように、殿(しんがり)に配置された。
 結界にミネルヴァの気配が漂っているならば、ミネルヴァに繋がる足がかりとなる。ミネルヴァを倒し、エンを助けなければならない。その気負いがひと際あろうヴィーナスが先走りしないようにというマーキュリーの配慮もある。
 だが、そのマーキュリー自身が、張り詰め過ぎた気持ちを抱えていた。仲間を動揺させまいとひた隠しにして。役目の重圧ではない。結界によるものとも違う。
 歌が聞こえるのである。聴覚を通してではなく、脳に直接響く歌声。――『月光』。
「何か歌が聞こえる」
 期せずしてセーラームーンが呟いた。
「そう言われると、小さな声だけど……」
「おかしな感じ……耳じゃなく頭に直接……」
 ヴィーナスとジュピターも首肯する。
(やばい)
 マーキュリーが異常を確認したとき、センサーアイが妖魔の襲来を知らせる。
「一階右端からひとり、昇降口からふたり、三階まんなかの窓からひとり」
 マーキュリーの号令に応じて、他の三人も身構える。
「計四人ね。ちょうどいい」
 ジュピターがオークガントレットにプラズマを漲らせた瞬間、マーキュリーが言い当てた箇所から妖魔が飛び出した。
 窓の割れる音が開戦の合図。
雷舞(らいぶ)っ」
 先陣を切るジュピターが右手から雷を迸らせた。
「え」
 ジュピターと、視界にあった彼女の攻撃をセンサーアイで見たマーキュリーは揃って驚きの声をあげる。
 エナジーが――雷の威力が落ちている。
 雷光の網を押し退けて、妖魔はセーラー戦士それぞれを射程圏内に入れる。
 応戦を試みるにあたり、セーラー戦士は自分たちに起きている異常を確信する。反撃にエナジーを表出させようとした瞬間、エナジーが削られていく。
(侵食されている)
 マーキュリーアンブレラの柄を、妖魔の魔爪にひっかけ、受け流しながらマーキュリーは事態を悟る。先ほどの妖魔(地鎮)の弾丸と同じ現象が起こっている。今回は歌を媒体として、エナジーが奪われているということか。
 エナジーでコーティングしてあるアンブレラが、妖魔の攻撃を受け流しただけで傷痕を残していることから、事態は深刻である。
 空飛ぶ轆轤首に迫られ、クレッセントシューターを連射したセーラームーンも、こちらの攻撃を煩わしそうにしかめた顔を見せつけられ、後ずさる。
(赤城さん)
 自分のエナジーが奪われていることよりも、クラスメートが妖魔となったことの動揺が大きい。その隙に、セーラームーンは轆轤首に喉を縛り上げられた。
 ヴィーナスがすかさずチェーンヒドラバインドで、自分が相対している妖魔共々、轆轤首の頭を締め上げる。喉への圧力が弱まったところで、セーラームーンは渾身の握力で轆轤首を引き剥がした。
 咳き込むセーラームーンに、ヴィーナスはウィンクして叫ぶ。
「みんな、スピードならまだあたしたちが上。妖魔から離れて。あたしが一気にカタをつける」
 セーラームーンも含め、ジュピター、マーキュリーも妖魔の追撃を振り払って、ヴィーナスの周囲から離れる。それに追い縋ろうとした隙を突いて、残るふたりの妖魔も、チェーンヒドラバインドで捕縛する。
「あたしたちのエナジーが侵食されているって言うんなら、いつもより多めにエナジーを注ぎ込めばいいだけの話よっ」
 憤然とした叫びのとおり、ヴィーナスは一気に四人の妖魔を浄化する。
 気絶しているとはいえ人間の姿に戻れた四人を、眉を顰めて見遣りながら、ジュピターは感心してヴィーナスに声をかける。リラックスさせるように。
「凄いわね、美菜子ちゃん。伊達にセーラーVやっていたわけじゃないわね、心強い」
 ジュピターは仲間と実戦を共にするのは初めてである。昨夜、知り合った経緯やら互い能力やらは聞いたが、とりわけ戦闘能力に至っては百聞は一見に如かずである。
 へへ、とヴィーナスはジュピターに褒められ照れ隠しに笑う。
「なあに、美菜子ちゃんってば、つかささんにはいやに素直じゃない?」
 怪訝な顔のセーラームーンが、マーキュリーの耳元で声を潜めた。自分たちに出会った頃の高慢な態度を知っているだけに。以前は気を張り過ぎていて、素顔を忘れていたのであろうけれど。ちょっと面白くなかったりする。
 いいんじゃない、とマーキュリーはセーラームーンの心理を見抜いて一笑する。
そうだけどさあ、とセーラームーンが唇を尖らせている横でマーキュリーは緊張感を保ち続けていた。一度敵を退けたとはいえ、依然として歌は続いている。
 内在するエナジーは、発現させたエナジーより奪われにくいようだが、それでも少しずつ削られていることが、精度を高めたセンサーアイを通した仲間たちの反応からマーキュリーにはわかっていた。
「だけど、ただでさえ、敵の結界のプレッシャーがあるというのに、エナジーを侵食されているというのは痛いわね」
 過度に気持ちを弛緩させないように、ジュピターが現実問題を告げた。マーキュリーの不安を言い当てるものである。
「そうね」
 セーラームーン、ヴィーナスも表情を引き締める。
「この歌を、まず止めなきゃ、ね」
 センサーアイで校舎に残る妖魔の反応を入念に確認しながら、マーキュリーはそう言って、手で一列縦隊の配置に戻ることを指示する。妖魔の反応は10点近くある。そのなかのひとつが、近づいて来ていた。それも、以前波長が記録されている妖気。
「あの()、自分から出て来るなんて、随分度胸もついたみたいね」
 そう続けた。相手は、歌の主。名は――。
「え」
 セーラームーンがマーキュリーの意味深の言葉を訊き返したとき。
「藍さんって、歌だけじゃなくて、意外な才能もあったんですねえ」
 そう言って彼女が現れた。セーラームーンは思わず耳を抑えた。歌の音量が大きくなったためである。直接脳に響いているので意味のない行動であったが。
 現れた妖魔の後頭部に生えた犬の顔が歌を続け、正面の口裂け女がマーキュリーに言葉を発したのである。
 マーキュリーは相手の変貌を見かねて、眉間に深い皺を刻む。
「知り合い?」
 頭痛すら催して来た歌の威力に、苦渋の表情でジュピターが顔だけ振り向かせて尋ねた。
「事務所の後輩」
 マーキュリーは感情を押し殺した声で答えると、ジュピターよりも前に出る。予想していたことである。自分が彼女のために手がけた『月光』が歌われているときから。厳然と睨みつける、妖魔として現れた生駒いずみを。
「ちょっと見せてくれません?水を操る力っての」
 言われるまでもない。マーキュリーは手中に聖水を召喚する。個人的な立場から言って、自分が責任を負いたい相手である。
「ちょっ――」
 自分を差し置いて攻撃に出ることに、ジュピターがマーキュリーの焦りを感じたときには、いずみを囲むように渦を成した聖水の流れがかき消されていた。
「なっ」
 マーキュリーたちは驚愕する。侵食を補うだけのエナジーを練り込んだにも関わらず、空間に喰われた。
「そのてーどなんですかあ?それとも、相手があたしだから手を抜いているんですかあ。――嘗めないでください」
裂けた唇をいびつに歪め、間延びした声が一転して剣呑なものに変わる。いずみの双眸が蛮勇のぎらつきを帯びた。
「あたしは貴女と、同じ土俵に上がったんです。本気で、あたしの歌を破りに来てください」
 辛辣に挑発する。
「歌の発生源だけあって、侵食量もずば抜けているってわけね」
 ヴィーナスが黄金の鎖を錬成して、前面に出た。ジュピター、セーラームーンもそれに並んで戦闘態勢に入る。
「手段を選んでいる猶予はないはず」
 協力されることに気乗りしない様子のマーキュリーを、ジュピターが戒めた。気負いの自覚があったマーキュリーは正論に口をつぐむ。
「行くわよ」
 共闘に断を下し、マーキュリーが号令をかけた。
「そうはいかない」
 低音の男の声が遮った。四人が反応するより早く、背後からセーラームーンとヴィーナスは延髄を打たれ卒倒する。
 ジュピターはその声の主をよく知っていた。振り返りざまに、相手の名を呟く。
「佐輔」


 火織はまだ、ふたりと別れたアパートの屋上にいた。
 コンクリートに寝転がって、空を見上げる。角度ある熱い日差しから目を庇うように、手を眉毛の上に乗せながら。
 その片方の手には一枚の紙切れ。数字、とあるところへの電話番号のメモ。
 頭の傍で羽を休めている二羽の鴉のように、このままじっとして、ひなたぼっこしているのも悪くない。自分は闇に馴れ過ぎたから。
 火織は寝返りを打つ。
 けれど。
 自然と視線は、同じ方向を気にする。
 城塞のようなエナジーの塊が、目を捕らえて離さない。目が痛くなるような毒気を発散させているのに。――十番中学の方向。兎和(とわ)たちが向かった先。
 フォレストもまた絆を捨てられなかった。どんな絆かは知らないが、つかさ――おそらく太古の戦いにおけるジュピターと。現代まで続いたミネルヴァと。その絆の板挟みから、両軍の戦力を拮抗させたうえで、行く末を天命に委ねた。因業に対し、彼なりに考えた答えを、身をもって示したのだ。結局死人のようにじっとする、ことはできなかったのだ。
 メタルスはそれを嘲った。もともと死人であるのに、じっとできなかったフォレストを。
(悲しかったんだね。死人であることが)
 火織はメタルスをそう思った。嘲りは、メタルスの心の奥にあった憧憬の反語表現だったろう。じっとする――何も個人の欲求で動けない傀儡であることが悲しかったのだろう。
(私はまだ生きている)
 なら動かなければ。生を無駄にすることは、メタルスの悲しみを冒涜することになる。
 火織は起き上がる。それにつられるように、鴉たちも羽に埋めていた嘴を上げると、その緋眼で火織の顔を見上げる。
 火織はケータイを取り出した。メモにある番号をプッシュする。つかさが渡してくれた火川学院の電話番号。
「もしもし。すいません、火織と言います。紅堂さんはいらっしゃいますか……。火織からと取り次いでいただけますか。はい、ありがとうございます。……ごめんなさい。もう顔を会わせたくもないかもしれませんが」
 電話口の向こうで、すまなかったと祖父の声がした。変わらぬ、従容とした声。
 どうして謝るの。悪いのは、自分の過去の絆を断ち切ろうというだけで、殺意を向けたこっちなのに。
「ごめんなさい。謝りたかった、ただ一言でも」
 帰って来い、祖父が告げた。電話を介して伝わって来る万感の思い。一言だけで互いのことが思いやれるのに、どうして、あのとき、一瞬でも疑ってしまったのか。
「ごめんなさい。私はお祖父様を疑いました。私は穢れています」
 それは穢れではなく弱さだ、と祖父が強い語調で言った。昔からの叱るときの声。嫌悪など微塵もないストレートな物言い。
 自分を貶めるのは弱さだ。自分を信じられない弱さだ。お前は母親の分まで愛される資格がある。そんな自分を貶めるな。愛される自分を信じろ。弱さには、信じることで毅くなる可能性が内包されている。
 祖父はそう諭してくれた。熱くなった目頭をこすって、火織は絆を結び直す。
「帰ります。今日。毅くなって」


 足許に倒れたふたりを見遣り、改めて敵として現れた鍛冶谷佐輔をジュピターは睨みつける。
「覚悟はしていたけどね」
 苦笑するジュピターに、マーキュリーは背中合わせになるように立ち位置を移し、各々の相手と対峙する。
「彼が貴女の言ってた妖魔になった友達?」
「ええ」
「センサーアイでキャッチできなかった。妖気を消されてたとしか思えないわ」
 幹部クラスの芸当である。しかも、不意打ちとはいえ、セーラー戦士をあっという間にふたり倒した。よほど的確に急所を打ち込まなければ、セーラースーツで守られているふたりを倒すことはできない。
(あたしの判断ミスだ)
 マーキュリーは自責の念に唇を噛み締める。自分が最初に陣形を崩したから、その隙を突かれなければ、一度にふたりを失うことはなかった。
「佐輔はねえ、ずっと特訓してたんですよお。気配殺すくらいわけないです」
 感情表現に乏しい佐輔に代わって、いずみが胸を反らす。
「あたしの歌で、エナジーが奪われたからやられたなんて言い訳されないうちに、さっさと片付けちゃいなよ」
 いずみが言った。
 佐輔は僅かに顎を引き、ジュピターに詰め寄る。
「随分変わったな。それが、お前の力の様相か?」
 まるでこれから儀式を行う祭司のように、静謐な声音で佐輔は問うた。無表情のなかで、穏やかな且つ鋭利な眼光が際立つ。まるで名匠に鍛え抜かれた日本刀を、その双眸に潜ませているかのようだ。
 ぱちぱちっ、右手では雷光がスパークしている。つかさは佐輔の問いに頷いてみせる。
「アンタと喧嘩するのも久し振りだね」
 小学校に入学したてのころ佐輔と喧嘩したことが、つかさの人生の転機となった。親に捨てられたという事実が、事あるごとに周囲からの白眼視を招いた。つかさは同級生、教師との溝は深まる一方であった。
 そのなかで、クラスのいじめっ子であった佐輔と取っ組み合い殴り合いの喧嘩をした。
 殴られる痛み、殴った疼きが、初めてつかさに生きている実感を与えてくれた。
 自分と喧嘩している佐輔が、生まれて初めて自分をきちんと見てくれている人間のように感じた。
 それ以来、競うように喧嘩を繰り返した。相手に負けたくなかった、互いに。
 それは、単なる暴力の喧嘩に留まらず、勉強、スポーツにまで広がった。
 そのなかで気付いた。いつの間にか周囲の偏見は消え、賞賛の声に変わっていたことを。見下されないためには、努力を重ね、常に周囲より優れていればいいということに気付いたことが、今のつかさの文武両道の姿勢を築いたのである。
 だが、佐輔の動機は同じようで違っていた。神童ともてはやされた兄・唯一(ただひと)と常に比較され、その境遇にもがいていた。名において、唯一(ただひと)の子供を、補佐せよと定義された子供。そのストレスがいじめに向いていた。だが、つかさと競い合うことを通して、生産的な方向に歩き出したのである。肉親に、別の価値を認めてもらおうと。
 いつの間にか、ふたりは良いライバルになっていた。性徴期が近付くにつれ、自然と喧嘩をすることはなくなっていったけれど。
「そうだな。だが、お前に甘えるのは、これで最期だ。俺は、独りで上り詰める。そのために得た力だ。先を見通し、先に行くために」
 つかさと競っていたことは、つかさに対する依存であったと。つかさがいなくても、上へ進めることを証明すると。佐輔は己の見解を告げた。
 佐輔が学生服を脱ぎ捨てた。肌に残る傷が脈動を始め、目が開く。身体中に目ができていた。
 げっ、横目で様子を窺っていたマーキュリーが思わず声を洩らした。
 ジュピターも表情を険しくさせる。一度は、この変貌を目の当たりにして、逃げた。だが、今は逃げない。そのための覚悟と力は身につけた。
「行くぞ」
 堂々とした風格すら漂わせて佐輔が言った。次の瞬間、ジュピターと佐輔の激突で閃光が走っていた。
「よそ見するなんて余裕ですねえ。まだ、あたしを嘗めているんですかあ。だったらあ、本気にさせてあげますよっ」
 ジュピターと佐輔の戦いに注意が向いたマーキュリーに、いずみは語尾に気合を込めるように強調して叫んだ。
 その発声に、マーキュリーの身体が反射的に竦んだ。まるで金縛りにあったかのように、身体が指一本動かない。
「じっくり間近で聞かせてあげますよ、あたしの歌を」
 半笑いする代わりに、裂けた口の一端を引き上げ、いずみは言った。罠にかかった獲物を観賞するが如き残忍な注視で、マーキュリーを刺しながら。
 いずみは棒立ちのマーキュリーの頭を鷲摑みにして持ち上げる。手から直接旋律が伝わって来るように、脳内で『月光』が最大音量で反響する。
「うああっあっあ」
 気が狂わんばかりの責め苦に、マーキュリーは悲鳴をあげた。
「藍っ」
 佐輔と攻防を展開していたジュピターは、マーキュリーたちのほうへ踵を返すが、佐輔は瞬時に彼女の正面に回り込む。
「これ以上、時間をかけて、お前のエナジーが削られすぎては興醒めだ」
「妖魔になっても、そういうところは変わらないわね。こっちも好都合。ありったけの力で行くわよ」
 ウェーブのかかった髪が靡き、火花が散る。その双眸とアークガントレットに、エメラルド色のプラズマが宿った。
 佐輔は喉を鳴らす。これほどの力を、いずみの歌声を聞きながら保っていられるのか。全身の目玉が相対するジュピターの一挙一動を見逃さないように睨みつける。一か八か勝負になる巨大な相手だからこそ、闘争心が煽られ、やり甲斐がある。
 藍は危険な状態だ。一瞬で決める。ジュピターは細く息を押し出し、吸気する。
吸気の終了と同時に、地を蹴る。佐輔は大きく目を見開く。
雷蛇(らいじゃ)
 雷の残光が尾を引き、蛇の胴体のようにうねり、爪を立てた右手が蛇頭の牙となって佐輔に迫った。
(狙うは――)
 ジュピターを引きつけて佐輔は身を沈める。そして、ジュピターと向かい合う全ての目が光った。
 光が破裂し、ジュピターが吹き飛ばされていた。破裂光の根元の部分には、佐輔が屈み込んでいる。エナジーは消耗したものの無事なようだ。
「あっちは終わったみたい。ねえ、藍さんも終わりですかあ?」
 地面に落ちたジュピターを一瞥して、いずみは顔の正面までマーキュリーを引き寄せ尋ねた。
 息を荒げ、瞳孔の開いた目で見返すだけで、マーキュリーの身体はほかの反応を示す自由を失っていた。
「あっそ、ほんとに終わり。ふ~ん」
 マーキュリーの反応に冷めた表情で、いずみは視線を外すと、次の瞬間、藍の頭を顔から地面に叩きつけていた。
 センサーアイが割れ、鮮血が散る。
「ふっざけないでくださいよお。これじゃ、あたしの腹の虫が収まらないんですよお。藍さん泥棒やってたんでしょお、裏切られた気持ちわかりますう?」
 マーキュリーの頭を引き上げ、詰め寄っていずみは言った。相も変わらず舌足らずな調子。それでいて、これほど暗澹たる空気を纏う者はほかにはいまい。
マーキュリーの半開きの唇が僅かに動き、微小な空気の振動に言葉を乗せる。
「わかってる」
「何がわかってんのよ。この有様でえええっ」
 心底からの罵倒と共に、マーキュリーの頬を裏拳で打つ。血が地面に飛び散る。そして、いずみはその手でそのままマーキュリーの喉を摑んだ。
「アンタに歌う資格なんてないよ……声潰してあげます」
「やめなさい」
 制止の声が鋭く切り込まれた。いずみは目を丸くして、その相手を見る。そこにはジュピターが立ち上がっていた。
 佐輔は何をしている。いずみが佐輔を視界に捉えた瞬間、佐輔の頭から血が滴り落ちた。そのまま倒れ込む。
「佐輔!?」
「見た目はひどそうでも、脳震盪起こしただけよ。命には別状ないわ」
 ジュピターがそう言ったとき、彼女の右腕と肩の付け根に激痛が走った。
 身を屈めた佐輔に雷蛇を振り下ろした瞬間、ぎりぎりまで引きつけたことでジュピターの懐に入った佐輔は、内側から光線を炸裂させたのである。フルパワーだからこその余波がなければ、佐輔にとどめを刺されていたはず。
 ジュピターが痛みで眉間に皺を寄せたことを見て取って、いずみは言う。
「なっらあ、みんなまとめて面倒見てあげますよ。まず、このひとの喉握り潰してからですけどねえ」
 マーキュリーに戻した眼差しに凄惨な光が帯びた。
「やめ――」
 右肩が熱くなって、ジュピターは言葉を途切れさせる。ダメージは想像以上に大きかった。攻撃に集中していた際の反撃だっただけに、防御に回すエナジーが手薄となっていた。
 しかも、確実にエナジーが侵食されていることが、手に発現したオーラの量でわかった。侵食量、侵食速度共に増していた。エナジーの減少がそのまま抵抗力の衰えにつながっているのである。
 いずみがあと少し力を込めただけで、終わってしまうというのに。この出足の遅れは致命的である。
 ジュピターが言葉を失い、絶望しかけた瞬間、黒いふたつの影がいずみの周囲を旋回した。
 撹乱しながら、嘴でいずみの腕から顔にかけてをつつく。
 フォボスとディモス。紅蓮の眼を許された鴉。
 いずみが人間心理で顔を庇おうと振り払う仕草をした拍子に、マーキュリーの喉から手を離した。その機を逃さず、小柄な鴉とは思えぬ力で、フォボスとディモスはマーキュリーの襟口をついばみ、前世より忠誠を誓う闘神の元へ運ぶ。
「あっれえ、どーゆーつもりですかあ?」
 いずみは猫撫で声で口を尖らす。乱入者の意図と、その装束についての質問であった。
 炎のような真紅で彩られたセーラー戦士の戦闘服を身に纏って乱入して来たのは、紅堂火織。
 彼女の片腕に、マーキュリーは背を預ける格好となる。事態の急変に理解がついていかない様子で自分の顔を見上げるマーキュリーに、マースはうっすらと安堵を与える笑みを見せて、オーラと同色の赫光(かくこう)を放つ瞳を、いずみに翻す。
「ごめんね、生駒さん。貴女にも、私と同じく地獄の業火で悔い改めてもらうわ」
 火織の言葉に、いずみは顔つきを険しくさせる。
「私の名は――火星の化身たる情熱の闘神・セーラーマース」
 火織はセーラー戦士として生まれ変わったことを宣言した。


To be continued...