ACT1 予感 (Part13)
「はあっ」
兎和は深刻な表情で溜息をつく。そして、母・時子の作ったサラダから輪切りのにんじんを一口。すると、また――。
「はあっ」
食卓についてから、何度目とも知れぬ溜息をついて、再度箸を夕食に運ぶ。これを幾度と繰り返している。
隣では、弟・駿がしきりに首を捻っている。
普段は、父の馬月( が食事を担当しているのだが、今日は出張で帰りが遅くなるとのことであった。それで、母・時子が、朝食に続いて、夕食も作ることになった。普段は、明朝の報道の準備に充てる時間であるが、こういうときは進んで腕を振るう。)
卯之花姉弟の大好物が、母手作りの野菜かき揚げであることからも推測できるように、普段料理をしていないからといって、時子は料理下手ではない。むしろ、冷凍モノやスーパーの惣菜に頼りがちの馬月よりずっと上手い。
そんな、せっかくの母の料理なのに、浮かない顔で溜息をつく姉に、駿は首を捻らざるを得なかった。
「さては、恋の悩み〜?」
と軽口を叩いて、切り口を見出そうとしてみる。
しかし、折り悪く、駿の計画を頓挫させるのにいいタイミングで、時子の言葉がかぶった。
「あら、これ、うちの近くじゃない」
テレビのニュースは地方局に切り替わっていた。
『日中の放火魔。セーラーV撃退するも……』
兎和が画面に目を向けると、そんなテロップであった。十番街の一角でセーラーVが放火魔を撃退したが、その放火魔の逮捕にまでは到らなかったという内容である。また、通りがかった女子中学生が軽傷を負ったとも。
(きりんのことだ……軽傷ってことは、そんな大事にはならなかったんだよね、よかった)
情報が入ってきて、兎和はホッと胸を撫で下ろす。セーラーVと一緒くたにされたのは、ちょっと気に入らなかったけれど。
そういえば、名乗りをしていなかったので仕方ないかもしれない。
兎和はご飯茶碗をとる。
「女の子に怪我をさせて逃げるなんて……気をつけてよ」
「う、うん」
兎和は箸先を口に含みながら、時子の言葉にそう呟くと、またもや溜息をついた。
(その放火魔……もういないんだよね)
インフェルノのことが兎和の脳裏を掠めた。
味噌汁のお椀を手に取り、すすり終えると、兎和は「ごちそうさま」と手を合わせて、席を立ち、足早に二階の自室に上がっていく。
駿は椅子を傾けて、姉の後ろ姿を見送りながら、
「姉ちゃん、変じゃない?」
そう言って、向かいに座る時子に同意を求める。が、時子は表情を変えずに答える。
「大丈夫よ。ご飯、ちゃんと食べているうちは」
幾度と溜息をついてはいても、兎和はご飯粒も丁寧に平らげ、味噌汁も飲み干し、おかずも食べきっていた。
「夕食をきちんととるってことは、明日の活力を必要としているってことだからね。悩みがあっても、何とかするわ、あの子は」
そう言って時子は朗らかに微笑む。そんな笑顔に、駿も口をつぐむ。
「そー言って心配して首を何度も捻っていた割には、駿もきちんと食べているじゃない」
と時子が、意地悪い顔を作って言い足す。
駿の夕食も残すところ、味噌汁ひとすすり分と、茶碗内で丁寧にかき集められたご飯粒一口分だけとなっていた。
駿は少しばつが悪くなって赤面する。そこで、時子が言葉を続ける。
「私たちの教育が、こんな日常茶飯時なことにまで、行き届いているってことね。そんな貴方たちを見ていると、安心だって思うわ」
兎和の悩みも、駿の不安も笑い飛ばすかのように。
兎和はベッドに寝転がりながら、ケータイを開く。画面に出したのは、藍のケータイ番号である。
水野藍。トップアイドルである彼女が、怪盗セーラーマーキュリーであったことを知ったのはつい先日のことである。だが、マーキュリーたる能力を何故身につけたか、その理由の手がかりを、妖魔――『月闇』の民との闘いから見つけた藍は、もう泥棒はしないと言ってくれた……はずであった。
全国ニュースで流れた怪盗セーラーマーキュリーによる宝石盗難事件、被害額は一億円相当にのぼるという。宝石店を狙った犯行である。
どういうことなのか。これが、水野藍の真実だというのか。
そのとき、ケータイが鳴った。今しがた画面に出ていた番号が、改めて表示される。藍からの電話である。
兎和は上体を跳ね起こし、電話に出る。
「も、もしもし」
「もしもし、兎和( ちゃん」)
「は、はいっ」
藍の声に、兎和は身を固くして、この場にいない相手なのに、正座して畏まった姿勢になる。何と言っても、相手はトップアイドルである。
「ニュース、見た?」
このタイミングで、この質問なら、具体的には何を指しているのか、察するのはたやすい。兎和は反問する。
「は、はい。どーゆーことですか?」
「あたしが知りたいわ。あたしじゃない、セーラーマーキュリーを騙った別人よ」
兎和に比べ、落ち着いた藍の声が返って来た。
「ニュースを見る限り、この夕方――先刻起きたばかりで、詳しいことは伝わっていないみたいだけど。でも、あたしじゃない」
念を押すように、藍が言った。でも、違うと言い切れる証拠を今示すことができないのも事実である、と藍はわかっている。だから、兎和が黙っている意味を察した。疑われるのは仕方のないことなのだ。これまで、ファンを裏切ってきた身である。
十秒にも満たない沈黙の後、兎和が口を開いた。
「信じます、あたし。だから、犯人を捕まえるのは、あたしに任せてください。なんてったって、セーラーV2号ですから」
「セーラーV2号?なにそれ?」
藍が問い返す。うふふ、兎和の意味深な笑い声が聞こえて来た。
「こっちのことです。でも、真犯人をいつまでものさばらせておくわけにはいかないでしょ。藍さんには歌手活動頑張ってもらわなくちゃ」
「ありがと、うさぎちゃん」
そう言って藍は電話を切る。安堵の溜息をつく。兎和は自分を信じてくれている、そのことに少なからず安心感が湧いた。居場所がある、と。
ただ――。藍は苦笑いして天井を見上げる。
(1号はどうかしらね)
兎和は嬉しかった。藍本人からわざわざ「違う」と伝えて来てくれたことを。
セーラームーンとしての自分を知り、信頼してくれる仲間がいる、そう感じさせてくれた。
おかげで、兎和から、藍に対する疑いは一片も残さず払拭された。だからこそ、藍には歌手としての本業に専念してもらいたい、と思ったのである。
そのためにも、自分がやれることをやらないと。兎和はようやく、そう気持ちを奮い立たせることができた。
(こーゆーこと繰り返して行けば……受け入れることできるかな)
兎和はまた上体を倒し、背伸びをしながら、心の中で自問する。思い浮かんだのは、火織のことであった。
「それでね、ニュースじゃセーラーV一言で片付けてたけど、どうやら別のセーラー服戦士だったらしいの」
翌日の教室、始業前に興奮して兎和と火織に報告してきたのは、昨日の影響が微塵も見られない輝鈴である。
「へえ〜」
当事者である兎和は相槌を打ちながら、元気な輝鈴の様子に満足そうに微笑みを浮かべている。
火織も頬杖をついて耳を傾けている。
「いずれにせよ、きりんちゃんが無事でよかったわ」
「そうなの。ニュースじゃ軽傷だの、比較的軽い怪我だの言ってたけど、気が動転して気を失っちゃっただけなんだから」
火織の言葉に、輝鈴は大らかに笑って答えた。
そこへ「セーラーマーキュリー」という単語が兎和の耳に入って来た。兎和は反応して横目でそちらをちらりと見る。
「昨日の夕べ、宝石店に入ったんでしょ」
「そうそう、売っているのには目もくれず、非売品だった宝石を狙ってだって」
「一億円だもんねえ、羨ましいわあ、セーラーマーキュリーが……」
教室の隅で、別の女子グループが件の盗難事件を話題に盛り上がっていた。高価な宝石に心奪われる悲しき習性を露呈している。
彼女たちを苦笑と共に一瞥して、火織が言った。
「セーラーVもひとり増えたことだし、セーラーマーキュリーもそろそろ年貢の納め時じゃないかしら、ね」
自分とセーラーVの関係を知っている上で、わざとらしく話を降ってきた火織に、兎和は思わず眉を吊り上げながらも、笑ってごまかす。
「そ、そうね」
「でも、セーラーマーキュリーって未成年ぽいよね。捕まったら、どんな処分になるのかしら」
他人事である輝鈴は、疑問をそのまま口にした。
火織は、兎和の表情を観察するような目つきのままで、独白気味に言う。
「警察に捕まったら、問題になるわね」
口許には、意地悪い笑みが浮かんでいる。この火織の牽制に、兎和は苛立ちを覚えた。
放課後、兎和は波野少年と約束の藍のサイン入りポスターを手に、教室を出た。その後には火織もついてきている。先日言ったように、放送部の活動を見学したいという。
階段の踊り場まで来ると、兎和が急に立ち止まった。周囲を見渡し、近くに誰もいないことを確かめて、兎和は、怪訝な色を浮かべる火織に振り返る。
「きりんのこと、ありがとう。これだけは先に言っておきたかったの」
「……別に。私の管轄内で、勝手な真似をして欲しくなかっただけだから」
兎和に頭を下げられた火織は一呼吸置いて、冷ややかに答える。
「火織ちゃん、可愛くな〜い」
兎和は顔を上げると、わざとらしく頬を膨らませて、声を大にして言う。これまでの鬱憤を晴らすかのように。
そうなのだ。火織は素直じゃない。素直なほうがずっと可愛いのに。
火織は指先で、自らの頬と顎をなぞりながら、真顔で言ってのける。
「綺麗とは言われるけど、可愛いとは言われないわね」
「ホ・ン・ト、可愛くないわね」
兎和は、片方の頬肉から唇の端をひきつらせながら溜息混じりに、そう呟いた。これだから美人は始末が悪い。
と、そこで、火織の右手親指の絆創膏に兎和は気付いた。
兎和の言葉を聞き流している風の火織であったが、兎和の視線に気付くと、気を逸らすように、兎和を追い越して、先にある放送室を顎で示す。
「そんなことより、部活に案内して頂戴」
火織は愛想笑いで案内を促す。兎和は、それを単なる自己中心的性格と受け取って、絆創膏のことは忘れて、疲労を覚えた。気疲れであろう。
「貴女と友達って大変ね」
兎和は率直な感想を述べた。すると、火織の唇に挑発するような笑みがよぎった。
「私と友達……『月闇』の民の一員になるってことかしら?」
「あーのーねー。普通の友達から始めるって発想はないの?ま、あたしは、あなたをこっち側で友達にするつもりだけどお」
兎和は火織に顔を寄せて、丸めたポスターでポンと相手の胸を叩く。兎和は、そのようにして喧嘩を売っているようにしか思えない挑発的な態度を返したかと思うと、逆に火織を追い越して、
「さあ、遅れちゃうから、行くわよ」
と火織を放送室へと急かす。今度は、火織が兎和のマイペースな気持ちの切り替えに閉口する番となっていた。
放送部に火織を連れて行った、この日から一週間過ぎた頃には、火織は兎和のDJと肩を並べる人気者になっていた。今や十番中学放送部の美人アナウンサーとして、校内の話題の的となっている。
毎日部活に出ているというわけではなかった。特に、放課後の出席率は悪かったけれど。
それでも、その一週間のうちに、兎和を含め放送部員一同は、火織のアナウンサー兼ナレーターとして実力を認めざるを得なかったのである。
昼休み、火織の声で、この昼休み中もしくは放課後の呼び出し、次の時間割の変更などのお知らせといったアナウンスが流れる。
(悔しいけど、綺麗な声だな)
アナウンサー志望の兎和としては、声といい、語り口といい、うかうかしていられないという思いである。
「兎和もうかうかしていると、仕事とられちゃうわよ」
廊下で共に談笑して歩いていた輝鈴は、兎和の心を見通すかのように言って来た。確かに、このままでは昼の放送の“顔”と自他共に認める自分の立場も危うい、と兎和には実感としてある。が、後から入った火織に弱気になるのも気に入らなかったので、強がってみせる。
「まだまだ、あたしだって簡単には、十番中学放送部の“顔”の座は譲らないわよ」
そんな強がりも見越すように、輝鈴は「うんうん」とわざとらしく相槌を打つ。すると。
輝鈴が視線を転じた。輝鈴のわざとらしさが釈然としなかった兎和も、つられて顔を向けた。
「響木さんよ」
輝鈴が呟いた。
彼女( は、火織より三日ずれて、転校して来た。)
響木( つかさ。)
――火織と鍛冶谷を追っていた少女――。
一週間もしないうちに、頭脳明晰スポーツ万能――十番中学校始まって以来の天才という噂が広まった優等生である。
真面目に耳やうなじを隠すことがないように、頭の後ろで結わえている髪や、縁のない眼鏡から覗く怜悧な眼( は、いかにも秀才といった感じである。そのうえ、光の加減で金色に光って見える髪の色が、端然とした容姿に凄みを添えている。)
「オーラが違うわね」
ふと洩らした輝鈴の言葉に、兎和は思わず身を固くして、首だけをぐるりと彼女にほうに回した、ときであった。
「こんにちは」
ちょうど前を通り過ぎようとしていたつかさが、兎和に気付いて、軽く会釈した。
「あ、こんにちは」
兎和は慌てて挨拶を返す。
「え、うさぎ、響木さんと知り合いなの」
「いやあ、知り合いってほどじゃ」
同じ学年でも、クラスの違う兎和は、本来そんなに顔をあわせる機会はないはずであった。
だが、つかさが転校して来た初日、兎和は彼女と顔を合わせている。
放課後、兎和が放送室に赴く途中のことであった。兎和と一緒に部活に行くところであった火織に、廊下でつかさが声をかけて来た。
「紅堂火織さんでしょ」
突然ドスの利いた声をかけられ、兎和はびっくりしたが、当の火織は落ち着き払って身体は動かすことなく、そのまま斜視する。
「何か御用?」
「私、今日2年4組に転校して来た響木つかさって言うの。ちょっと、話があるんだ」
つかさは火織を観察するようにして、彼女の正面に回り込みながら言う。
火織が冷然として反応を示さないので、つかさもそのまま続ける。
「うちに帰らないで、何をしているんだい?」
その一言で、火織は無表情から仏頂面に切り替わる。
「赤の他人にとやかく言われる問題じゃないわ」
「おじいさんが心配している」
「他人のウチのことに、首を突っ込むと火傷するわよ」
火織が語気を荒げ、つかさを睨みつけた。つかさはそれを一歩も退かずに受け止める。その場のただならぬ雰囲気に、兎和はおたおたするばかりである。
つかさの態度が、火織を更に刺激していた。火織は今にも掴みかかりそうな威圧感を放っていたが、ふと我に返ったように視線を落とす。
怒りを露わにする自分の、らしくなさに気付いて、火織は俯いたまま、感情を押し殺しているような声で、兎和に言った。
「ごめん、今日は部活休む……」
火織は踵を返し、つかつかと歩き出す。兎和は呼び止めたかったが、火織の怒気に言葉をつぐみ、見送るしかなかった。
火織の姿が見えなくなると、そちらから視線を外したつかさと兎和は目が合ってしまった。気まずかったが、兎和は愛想笑いを浮かべて、場に残った重苦しい雰囲気を取り繕う。
つかさもつられるように微笑を返すと、先ほどまでとは一転した飄々とした口調で、
「ごめん、嫌な気分にさせたね。あの娘( の友達?」)
「はい」
自分でも意外であったが、素直に首肯してしまった。今になって、兎和は首を捻る。現段階で認めてしまっていいものであろうか。友達、と。
そんな兎和の仕草を見ながら、つかさは思う。
(どこに帰るんだなんて言ったら、派手にやらかしそうだからな。こんな娘まで巻き込む訳にはいかない)
つかさはわかっている。火織の帰る場所がどこにしろ、鍛冶谷唯一( のところに違いない。だからこそ、派手) ( にやらかす危険性) ( がある、とつかさは心得ていた。)
「あのう……」
おそるおそる言って来た兎和に、つかさは思考を中断した。
「火織ちゃんと、どーゆー関係なんですか?」
「ん……家出少女の捜索人ってところね」
つかさは顎に拳を当て少し考えると、きっぱりと言い切った。
この一件で、兎和はつかさと面識を持った。しかし、やりにくくなるから、このことは他言しないようにつかさから頼まれたので、火織が家出少女云々に到るまでのつかさとの出会いは輝鈴に話していなかった。
兎和は約束の手前、輝鈴に言葉を濁しながら、つかさを目で追った。
不思議な違和感を覚えるのである。
天才と噂される彼女、ちょうど挨拶を交わした相手も、そういったイメージであった。
しかし、火織と対峙したときの彼女は、単なる天才で片付けられる単純なものではなかったような印象が残る。
(火織ちゃんみたい……に……)
色々な顔を持っていそうで……それが漠然とした不安へと結びつく。
不安といえば、怪盗セーラーマーキュリーの偽者は、あれからもまた一度出没した。このまま、世間から消えるとは思えない。
このまま終わるとは思えない。
全てをひっくるめたうえでの、兎和の予感であった。
自分の置かれている環境は、着実に変化している。そんな実感に、兎和の胸中には、嫌な予感が芽生えていた。
火織との距離が縮まったという感慨とは裏腹に。