ACT6 インフェルノの最期 (Part12)
闇水晶の凶暴なエナジーは、セーラームーンにとって想像以上に負担がかかるものであった。しかし、彼女は歯を食いしばって耐えた。
キャパシティに問題はない。しかし、いわば吸収口の規格に対して、流出する黒い光の量が多すぎて、吸収し切れなかった分が、直接、セーラームーンを傷つけているのである。
凶暴であるが故に、一度解放された黒水晶のエナジーは容易に制御できなかった。
吸収できるエナジーを吸収しながら、セーラームーンは思案を試みる。そして、ある方法を考えつく。とりあえず吸収口をもうひとつ増やせばいい。
「ルナティックブラックボールッバージョンU」
セーラームーンは今しがた思いついた技の名前を叫んで、気合を入れる。
セーラームーンの手と一緒にインフェルノを固定していた、黒いエナジー球体に脈打つように、光が波打ち、インフェルノの身体に帯びる黒い稲妻を全体で吸収し始めたのである。
ルナティックブラックボールという、いわば自分のお手製の容器にも吸収するエナジーを振り分ければ、自身の一度の吸収量を調整できると考えたのである。自分の能力を把握できていないので、机上の空論でしかないが、これまでのところはうまくいっている。
「おおおお……」
インフェルノの顔色は、闇水晶の反動によるショックで土気色になっている。だが、その肌の色、呻きとは裏腹に、瞳からは険がとれ、別の光が宿っていくように、セーラームーンとエンには見えた。
「いけるっ」
確信めいた歓声をセーラームーンはあげる。
その勢いに乗って、残る闇のエナジーを一気に引っ張り出すように、拳を振り上げた。黒い雷が、彼女の拳を中心に渦を巻いていた。
インフェルノの額の水晶から黒い色が抜け、半透明になる。インフェルノは大きく目を見開き、頭を抱えた。言葉にならない絶叫を暗示するかのように、インフェルノ自身のエナジーが周囲を駆け巡り、大気を震わせた。
「インフェルノッ」
エンとセーラームーンは、彼の悶える様を案じて、声をかける。
しかし、セーラームーンは闇水晶のエナジーを一手に引き受け、負荷に耐えるので精一杯であった。エンも今の身体、しかも上空という場所では、どちらの助けにもなりえない。
「セ、セレニティ……」
その言葉に、ふたりは顔を上げた。
インフェルノが首を巡らし、セーラームーンを見つめていた。それで、セーラームーンは彼が自分に呼びかけていることに気付く。
「セレニティ――あたしのことなの?」
降って湧いた第三の名前に困惑する。
その顔を見上げるエンの表情は固い。唇を真一文字に結ぶ。
「イ、インフェルノ……」
異変に気付いたのは、セーラームーンであった。力のない声、混乱が尾を引いているのだとエンは思った。しかし、違った。
インフェルノのほうに顔を向けたエンは、インフェルノの額の水晶が崩れていくのと同時に、彼の身体もまた砂のように崩れ始めていることに気付く。
セーラームーンはあまりの出来事に、言葉を失う。そちらに気を取られたことで、雷の渦に引きずられるように姿勢を崩す。ルナティックブラックボールも制御を失ったかのように、不定形になりながら膨張する。
セーラームーンの胸元で、彼女同様体勢を崩しながらも、そんなことに構わずエンは目を剥き、インフェルノを凝視する。
インフェルノは悲しげにエンと視線を交わした。それでも、表情は穏やかであった。
エンはセーラームーンのほうに視線を転じる。インフェルノの覚悟を知った以上、彼のかつての主として狼狽する様を見せるわけにはいかなかった。当面の問題にとりかかるほうが先決である。
彼ならば「自分に構うな」と言うはずだから。エンはそれがわかっている。顔が半ば崩れ落ち、発声する器官も失われてしまった現在のインフェルノには無理だからこそ。
「セーラームーン、何をしている。落ち着け」
「だ、だって、インフェルノが……」
「奴のことは気にしないでいい。奴は、ずっと昔に死んでいるんだ」
自然の摂理に従って、然るべき状態に戻るだけなのである。エンは自分に言い聞かせるようであった。
「そ、そんな……」
呆然とするセーラームーンは、インフェルノの最後に残った片目と目が合った。自分に何か言いたげであった。
セーラームーンは思わず、空いている手を崩れ去るインフェルノに伸ばしたが、虚しく空を切る。
インフェルノであった砂が、セーラームーン身体を通り抜けるようにして、宙に飛散した。
ほどなくして、セーラームーンは闇水晶の残存エナジーを吸収し終えた。
セーラームーンは無言で十番街に戻った、人目につかないような閑静な住宅地の細い裏道に降下する。エンが足許に跳び降りると、変身を解く。
兎和は自分の手のひらを見つめた。
虚しさとやるせない気持ちだけが残った。
そして、力一杯に握りしめると、右手を額に叩きつけるように押しつけた。空いている左手は彼女の顔を覆う。
嗚咽が洩れた。
「知らなかったンだもん、こんな……こんなことになるなんて、知らなかったんだから」
責任転嫁の言葉とは裏腹に、兎和は自分の責任として感じているとしか思えなかった。
少なくとも、自分の行為が原因で、インフェルノの身体は崩壊した――死んだ。殺した。
兎和の身体がわなわなと震える。
エンは見るに見かねて、懸命に声をかけた。
「違う、言ったはずだ。インフェルノはとっくの昔に死んでいた。君の行為は、ミネルヴァの傀儡として蘇ってしまったあいつを、解放したんだ。気を病むことはない」
兎和は鼻をすすりつつ、涙を右手の甲で拭いながら、エンを見下ろす。エンの目線の高さとまではいかなくても、近づけようとしゃがみこむ。何かに縋りつきたかった。
悄然とした表情の翳りは一向に晴れない。エンは間近でそんな兎和の顔を凝然として見た。彼女の憔悴を見るに耐えかねても、弱気を見せるようでは、指揮官として失格である。
(やはり闘わせるべきではなかったのか)
同じ理由で、呟きかけたその言葉も飲み込んだ。過去には戻れない。ならば、未来を見て今闘うほかないのである。
少なくとも、彼女はその力を持っているのであるから。
今の自分には、共に闘うことすらできないかもしれない。だが、共に、死ぬことならできるから。代価としては不充分でも、それしか今の自分には約束できないから。
「命の重みを知っているから、君が闘わなくちゃならないんだ。知らなければ、殺戮の道具にしかならない、いや成り下がってしまう」
厳しい口調であった。兎和が息を飲んだことがわかった。
「君だからこそできることなんだ」
真摯な眼差しが兎和の瞳を見入った。
兎和は涙と鼻水で濡れた手を顔から離す。濡れた双眸が差し込む光を反射して光った。
「あたしは誰なの?」
インフェルノが口にした「セレニティ」の言葉を暗に仄めかして言っているとエンはすぐに悟る。
「君は、卯之花兎和だ。「セレニティ」の能力を受け継ぐセーラームーンとしての力を使いこなすのは、卯之花兎和、君自身だ」
エンは兎和の問いに、屹然とした態度で答えた。
『目の前にいる助けなきゃいけない人を見失わないあたしでいたい』
インフェルノとの闘いのなかで発した兎和の言葉を、真実であるとエンは信じた。
その真実の気持ちがあれば、セレニティの能力を、正しく人々のため振るうときが来ると。
現在の兎和には、何よりも、そう言っていた卯之花兎和自身を信じさせることが必要に違いなかった。
「独りになりたいの」
そう言って、兎和はついてこようとするエンを拒んだ。エンが単独で行動していることで、彼がこれまで兎和をマークしていたことを薄々気付いていたのかもしれない。
「貴方だって、少しは休まないともたないわよ」
兎和は、そう釘を刺した。
直に触れてヒーリングをしたことで、兎和にはわかったのである。仮のぬいぐるみの身体でいるだけで、エンが徐々に衰弱していることを。エナジーというより、ぬいぐるみの身体に許された寿命の問題であった。
差し迫った事態ではないにしろ、このままでは……。
エン自身わかっている。
「……わかった。だが、君自身、しっかり静養してくれ。身も、心も」
兎和の精神状態への不安をエンは口にする。マース――紅堂火織のこともある。しかし、逆に自分がいても足手まといになるやもしれなかった。
時には辛辣な物言いをしても、実際は仲間を気遣うエンの心根が窺えた。自分たちの指揮官として信頼できる、と改めて思わせてくれたことは、多少なりとも、今揺らいでいる兎和の精神的支柱を補強する材料となりえた。
だから、あえて今兎和はエンから問い質したりはしない。「セレニティ」や色々なことを。
今は何か理由があるのだ、と。なら、いつか向こうから話してくれるであろうから。
それに、今の兎和は、理由を知るだけの器量が果たして自分にあるか、自分を信じられずにいた。
「十番中学……この制服だとここの学校ですね」
つるりと額からてっぺんまで禿げ上がった初老の店主が、カタログに眼鏡を寄せて、実物と確かめている。
ハンガーにかかった実物の制服を持っているのは、鍛冶谷( と火織を追う謎の少女であった。火織の制服のデザインから、彼女の在籍する中学校を、制服専門店で突きとめていた。)
「ありがとうございます」
少女は丁寧にお辞儀をすると、颯爽と店主に踵を返し、ケータイに親指を当てながら、店を出る。その途中で、拝借した制服も元あった場所にかけ直す。
店を出たときには、ケータイの電話帳から、とある番号を引き出し、相手が電話に出るのを待つ段階であった。三回コールが鳴り、相手が出る。
「もしもし」
従容とした男性の声に、少女は相手を確認する。
「紅堂さん、響木( です。お願いしたいことがありまして」)
苗字を名乗り、少女は街を歩きながらも、密談をするかのように口許を手で覆うようにして、声をひそめて話を始めた。
エンは二階建て住宅の二階の窓に到着する。セーラーV、姫地( 美菜子の部屋の窓。)
エンがいつでも出入りできるように、基本的に夜遅くになるまで、鍵はかかっていない。特に夏である現在は、最初から開放されていることが多い。
ジャ○ーズ系を初めとしてアイドルのポスターが所狭しと張られている、そして、藍のポスターまで。セーラーVの普段の物腰からは想像できない部屋であった。
淡いピンクのベッドの上で、美菜子が布団もかけず横になっている。死んだように。
「みな――」
エンは青ざめて、慌てて美菜子の顔を覗き込む。
エンの気配を察知したかのように、美菜子の瞼が震え、目を開ける。
「エン……おかえり」
「美菜子……どうしたんだ、こんな時間から」
エンが安堵の溜息をつきながら、優しい声音で美菜子に問うた。
美菜子は首だけではなく、横になったまま、身体をエンのほうに回転させる。
「いつもの貧血( よ……心配ないわ」)
美菜子はエンに心配かけまいと笑顔を返す。
だが、エンはわかっている。銀水晶をその身に宿らせていることが、美菜子の身体の負担になっている。ミネルヴァから銀水晶を守るため、美菜子が自らの身体を最後の防壁にしている故に。
「美菜子……あまり無理は――」
「してないわ。大丈夫だから、ほら」
美菜子は諌めようとしたエンを途中で遮って、上体を起こすと、細腕で心なしの力瘤を作る真似をする。そして、ふと壁時計に目をやる、もう午後五時である。
「もうこんな時間、夕飯の準備しなくちゃね」
美菜子はわざとらしく大きな声でそう言うと、エンと目を合わせないようにして階下に降りていった。
美菜子に父親はいない。彼女が11歳のときに交通事故で亡くなった。
父親が跳ね飛ばされ地べたに転がった瞬間を、美菜子は見てしまった。家族の死を目の当たりにしたショックが、彼女の深層にあった前世の記憶を不完全ながら呼び覚ました。
その頃の美菜子に、前世の記憶を理解できるはずもなく、父の死もあり、情緒不安定に陥った美菜子は不登校になった。
そんな美菜子とエンは出会った。
理解者を得た美奈子は、小学校の卒業式に出席できるまでに回復し、この春、無事中学生となった。パートを掛け持ちし、夜遅くまで働く母に代わって食事の用意をするまでになっている。
ただ、弱音も、泣き言もエンの前で洩らさなくなった。先月13歳になったばかりなのに、相当無理していることが窺えた。
エンは沈痛な面持ちで部屋を見回す。
アイドルの追っかけも、落ち込む暇もないように、気持ちを奮い立たせる手段として始まった。
彼女は毅い。悲壮なまでに。
エンはそんな美菜子をいじらしく思うと同時に、危ういと思った。だからこそ、彼女の傍を離れるわけにはいかなかったのである。
兎和は十番中学に戻っていた。部活の途中で脱け出したからである。まだ、この時間なら部活は続いている。
(マース――火織ちゃんに似た波長の鴉が、あたしにきりんの危機を知らせてきた……)
下駄箱で靴を履き替え、部活を脱け出した経緯を振り返る。
部活中、異常な波長を感じた。大気の蠢動。これを気配というのかわからないが、ソルジャーマースと闘ったときにも感じた、その存在があるだけで大気が波打つ現象。それを兎和は察知した。
部活を脱け出し、その波長を辿ると、外の水飲み場に赤眼の鴉が留まっていた。不気味な赤い目玉は忘れることができない。ソルジャーマースとの闘いで、始まりのとき、彼女の肩に留まっていた鴉の片割れに違いなかった。
嘴と目の動きが、ついて来いと言っているように思えた。
罠かもしれないと思った。しかし、下手を打って、学校で闘うことになるのは避けたかった。それで、変身してついていき……。
(火織ちゃん、きりんが危ないってあたしに教えてくれたんだ)
やはり、いくら思い返しても、そうとしか思えない。輝鈴の気持ちが火織に伝わっている、そう思うと嬉しくなった。励みにもなる。
輝鈴のケータイにも、自宅の電話にもつながらない。病院であろうか。輝鈴は一人っ子で、普段、自宅にはお母さんがいるはずである。お母さんも付き添いで病院であろうか。
大サボりをしてしまったし、荷物を取りに行ったら、このまま今日は適当にごまかして部活を上がらせてもらい、輝鈴の家に寄ってみようと兎和は思う。普段、真面目に部活しているから、一回ぐらい無茶は通ると思う。
「兎和( 先輩、どこ行ってたんですかあ、心配してたんですよお」)
突然、後ろから声をかけてきたのは、部の後輩の波野少年であった。
兎和が振り返ると、波野少年は眉間に皺を寄せた。
「目、腫れてますよ。どうしたんですか」
波野少年の指摘に、兎和は思わず瞼に指をやる。
(そっか、さっき泣いたから)
「今日、帰ったほうがいいんじゃないですか、荷物取って来ますよ」
勘繰るような目線ながら波野少年がそう申し出てくれた。渡りに船とばかりに、兎和は波野少年にお願いして、荷物を取って来てもらうと、輝鈴の家に向かった。
輝鈴の家には、まだ誰も帰って来てはいなかった。
ヒーリングはきちんと施したはずであるから、輝鈴の身体に問題はないと思うのだが。
輝鈴に何が起きたか知らないはずの自分が、気遣って待っているというのも変であるから、兎和は自宅に帰って来た。
「ただいまー」
意識していないと、落ち込んだ声しか出ないような気がして、兎和は努めて明るい声を出して、家に上がる。
きちんと靴を揃えていると、母・時子の声が聞こえて来た。
「うさぎ、うがい手洗いしたら、夕食の準備、手伝ってえ」
「はあい」
互いに遠くから声を交わすと間延びした調子になってしまう。兎和はひとまず返事を返し、洗面所で手洗いとうがいを済ますと、目の腫れが引いているかをチェックする。
ふうっ、一息ついて、兎和は両頬を手のひらでぴしゃっと叩く。
家族の前でまで陰気な顔はしていられない。
気を取り直してダイニングへと向かう。とりあえず、テーブルを拭いて、家族の箸を用意する。そんな作業をしながら、兎和は隣のリビングで寝転がりテレビを見ている弟・駿に諌める調子で声をかける。
「駿、あんたも手伝ったらどうなのォ?」
「ちょっ、ちょっと待って」
弟にそう言われておとなしく引き下がっては、姉の沽券に関わる。リビングにつかつか歩いて行くと、駿の頭に拳骨を一発かまそうとしたときであった。
画面に流れているニュースのテロップに目を見張る。
『怪盗セーラーマーキュリー出没! 宝石一億円相当被害』
ニュース番組内でも、急遽舞いこんで来た事件らしい。マーキュリー派の駿が、テレビの前を離れるのをためらった理由はこれにあったわけであるが、兎和にはそんなことどうでもいい。
やめるはずではなかったのか。
「ど、どういうことなの」
拳骨を固めたまま、動揺した表情で立ち尽くす姉に、駿は首を傾げた。
To be continued...