野心を持つ者たち


 ここ数日、マザー・テレサは自室に隠りきりだった。それと言うのも、娘のファティマの姿が数日前から見えないからだ。
 豪華な椅子に腰を下ろし、背もたれに体を預けて、マザー・テレサは目を閉じていた。
“ラピュタ”に向かう道程で、ファティマは姿を消した。浮遊戦艦カテドラルで、共に組織の中枢があった孤島から脱出したはずなのだが、突然姿が見えなくなってしまった。〈カテドラル〉の中で何かがあったのだろうが、ファティマが姿を消す程の事態が起こったとは思えないし、賊が侵入した形跡もない。だとすると、ファティマは自分の意志で〈カテドラル〉を去ったということになる。しかし、自分の意志で〈カテドラル〉を去ったと仮定しても、その理由が分からなかった。
「わたしは、どこで道を間違えてしまったのだろうか………」
 自問してみたが、答えなど出るはずもなかった。ただひとつの自分の間違いは、分かっているつもりだった。
「!?」
 寒気を及ぼすほどの気配が、背後で蠢いた。
「何人たりとも入るなと申したはず………」
 気配が誰のものなのかは分かっていた。ブラッディ・クルセイダースにおいて、これ程の邪悪な気配を放つ者は、大司教ホーゼン以外あり得ない。ただひとつの「自分の間違い」が、ホーゼンという存在だった。
「ファティマはまだ見つからぬのか?」
 マザー・テレサの心までは分からぬ大司教ホーゼンは、ゆっくりとした口調で尋ねてきた。
「〈カテドラル〉には確かに乗っていた。なのに、何故あの子の姿が見えないのか………」
 弱味を見せるつもりはなかったが、ファティマの名前が出てくると、どうしても本心の方が口から出てしまう。
「案外、大司教が囲っていたりしてな」
 からかうような声が、突然響いた。
「スプリガン!」
 大司教ホーゼンは、憎々しげにその者の名を口にする。今は、あまり顔を合わせたくない男だった。
「何用じゃ!?」
「あんたに問われる筋合いはねぇ」
 スプリガンはピシャリと言い放つと、大股でマザー・テレサの元に歩み寄った。
「“ラピュタ”上において、ファティマらしき“気”を捉えました」
「誠か!?」
 (うれ)いを帯びていたマザー・テレサの表情が、幾分和らいだ。ホーゼンの薄い眉毛が、ピクリと撥ねた。
「正確なポイントの割り出しはできてはありません。このまま捜索を続行致します。しばし、お待ちを」
 スプリガンは右手を胸に添えながら、慇懃に頭を下げた。ゆっくりとした動作で上体を戻すと、大司教ホーゼンの方へ身を(ひるがえ)す。
聖櫃(アーク)の方は見つかったのかい?」
「………」
聖櫃(アーク)がどうしたのです?」
 ファティマのことで頭がいっぱいだったマザー・テレサは、その本来の目的を忘れていた。“ラピュタ”には聖櫃(アーク)を求めてやってきたのだ。
「盗まれてしまったのですよ。大事な大事な聖櫃(アーク)をね」
「大司教、それは誠か!?」
「………うむ」
 大司教ホーゼンは、苦虫を噛み殺したような表情をした。余計なことを………。スプリガンを睨むホーゼンのその目は、そう語っていた。
「ディールが一枚噛んでいるようですが………」
 スプリガンは説明を補足する。
「あの裏切り者が?」
「裏切り者はディールだけではありません」
 大司教ホーゼンに向けていた体を、スプリガンは再びマザー・テレサの方に戻した。
「ジェラールが騎士団と共に、ブラッディ・クルセイダースを離反致しました。騎士の城塞(クラック・デ・シュバリエ)にて、イズラエル、サラディアと交戦したようです。セレスも既に離反しております」
 そう説明するスプリガンは、そのサラディアを騎士の城塞(クラック・デ・シュバリエ)襲撃に向かわせたのが、大司教ホーゼンであることに気付いていないようだった。
「ジェラールが………」
 マザー・テレサは形の良い眉を寄せた。ジェラールが離反した理由を思い付かないからだろう。セレスに関しては無視をした。もともとセレスの加入をあまり快く思っていなかったマザー・テレサには、セレスの離反はさして影響がないようだった。端から眼中にないと言った感じだ。
「ジェラールは、あのセーラー戦士と共闘しているようです。騎士の城塞(クラック・デ・シュバリエ)は陥落せしめましたが、ジェラールと騎士団は落ち延びております。サラディアが追撃しているようです」
「イズラエルはどうした?」
「〈レコンキスタ〉撃沈との報せを受けております。イズラエルは戦死した模様です」
「情けない………」
 マザー・テレサは吐き捨てるように言う。仮にも「息子」として育てた男ではなかったが、それはイズラエルの能力を買ってのこと。その程度の男だったのかと、半ば呆れている様子だった。死を悼む様子は、微塵も感じられない。
「ワルキューレを十三人衆に取り立てよ。欠員は随時補充する。今後はスプリガン、そなたが十三人衆をまとめよ」
「はっ。畏まりました」
 スプリガンは深々と頭を下げる。
聖櫃(アーク)の件は。如何致しますか?」
 頭を下げたまま、次いで尋ねた。
「そなたはここを動かんでよい。サラディアに探させよう。それで良いな? 大司教」
「御意」
 胸に手を置き、大司教ホーゼンは恭しく腰を折った。
「セレスのやつも聖櫃(アーク)を狙っております。あの女狐、恐らく聖櫃(アーク)のことを探るために、我が組織に参入したものと推測致します」
「捨て置け。小娘ひとりに、何ができる」
「ひとりではありません。仲間がおりました」
「全く、余計な手間を増やしてくれる………」
 マザー・テレサは、忌々しげにホーゼンの顔を見やる。セレスを組織に加えたのは、他でもないホーゼンだからだ。
「サラディアには、同時にセレスの始末もさせる」
 ホーゼンは感情を押し殺したようなトーンで、そう言った。マザー・テレサはそんな大司教ホーゼンを一瞥してから、スプリガンに視線を戻す。
「セーラー戦士の始末は、そなたに任せる。期待しておるぞ、スプリガン」
「はっ!」
 今一度深々と頭を下げると、スプリガンは踵を鳴らしてマザー・テレサに背を向ける。
「なんなら、お前も十三人衆に加えてやってもいいぜ」
 スプリガンはすれ違いざま、大司教ホーゼンの左肩を叩く。
「ふざけるでない」
「ふっ。ははははは………」
 気分を害した大司教ホーゼンの左肩をもう一度叩くと、スプリガンは愉快そうに笑いながらマザー・テレサの私室を後にした。
聖櫃(アーク)の件、初耳だぞ?」
 スプリガンが立ち去ると同時に、マザー・テレサは大司教ホーゼンに鋭い視線を向けてきた。その目は、先程までの憂慮の瞳ではなかった。
「ファティマの件で気に病んでいたようだったのでな。報告は避けていた」
「いらぬ配慮を………」
 マザー・テレサは、その美しい表情を僅かに歪める。
「どうするつもりだ? 聖櫃(アーク)の中に眠るアレが、我らには必要なのだ。いや、アレ自体は必要ではない。アレを我らが保有しているという事実そのものが大事なのだぞ? それをそなたは分かっておるのか?」
「案ずるな。『破壊をもたらす者』は、あくまでもオプションにしかすぎん。儂が求めているもの(・・・・・・・・・)は別にある」
「そなたが求めているものなど、聞いてはおらん!」
 マザー・テレサは語気を荒げた。そして、怪訝そうな顔をする。
「今、そなたは、自分が求めているものと申したな。そなたが求めているものだと? 我らと同じく『破壊をもたらす者』ではないと言うのか? そなたは、何を求めている?」
「“奈落”」
「ならく………?」
「“種”植え付けは成功した。間もなく“芽”も出てこよう」
 大司教ホーゼンの瞳が、ギロリと不気味な輝きを放ったように見えた。

 イズラエルは、柔らかなベッドの上で目を覚ました。どのくらい眠っていたのだろう。朦朧とした意識の中でそう考えてみたが、答えは導き出せなかった。
 静かだった。
 しかし、冷たい静けさではなかった。どこか暖かみがあり、優しい空気が流れていた。
 懐かしい香りがした。
 どこかで嗅いだことのある香りなのだが、それが何の匂いなのか思い出せなかった。まだ、完全に意識が覚醒したわけではないようだ。思考能力は低下したままだった。嫌な匂いではなかった。むしろ、心が安らぐような香りだった。
 体は鉛のように重たかった。
 柔らかいベッドに身を沈めているイズラエルは、身を起こそうと試みた。しかし、その意識に反して、体はイズラエルの命令を拒んでいた。
 ぼやけていた焦点が次第に合い、白いタイルが瞳に映り込んできた。天井だった。
「お兄様?」
 まるで(くすぐ)られているかのような細い声が、イズラエルの鼓膜を打った。
(この声は………)
 イズラエルは思案しながら、声の聞こえてきた右側に、僅かに首を傾けた。どうにか、首は動いてくれた。
「ファティマ………」
 声を出すことができた。そこにいたのは、妹のファティマだった。頬はこけ、生気がなかったが、愛らしい表情は以前と変わりがなかった。数日顔を合わせていないだけだったはすだが、数年ぶりに会ったような錯覚を覚えた。ファティマが何故ここまでやつれているのか、今のイズラエルの思考では、そこまで考えてやる余裕がなかった。
「ご気分は如何ですか?」
 不安げに揺れる瞳が、自分に向けられていた。
「そうか、俺はお前に助けられたのだったな………」
 ようやくイズラエルは、全てを思い出した。倒したはずのセーラー戦士に逆襲され深手を負い、ヴィクトールにトドメを刺される直前にファティマに救われたのだ。
「俺は生きているのか?」
「もちろんです。ファティマが介抱を致しましたから、間もなく動けるようにもなりましょう」
 ファティマはにっこりと笑みを浮かべた。ふわりと漂ってきた香りが鼻孔を擽る。先程嗅いだ、懐かしい香りと同じだった。
(そうか、ファティマの香りだったか………)
 イズラエルは納得する。心が安らいだのは、ファティマの香りだったからなのだ。
「ここはどこだ?」
「“ラピュタ”………です」
 僅かに逡巡(しゅんじゅん)したのち、ファティマは答えた。
「そうか、〈カテドラル〉は“ラピュタ”に到着していたのか………。だとすると、アレはもう目覚めてしまったのか………?」
「アレ、ですか………?」
 ファティマは首を傾げた。何を言われているのか、全く分からないという表情を見せた。
「そうか、お前は知らなかったな」
 イズラエルは言いながら、首を正面に戻した。瞳は再び、天井の白いタイルを映した。
「あまぁい雰囲気をぶち壊して悪いんだが、いつまでも見せ付けられるのも(しゃく)だから、口を挟ませてもらうぜ。『破壊をもたらす者』は、まだ目覚めちゃぁいない。安心しろ………と、言うべきかな?」
「なに!?」
 ファティマの声ではなかった。男の声だ。聞き覚えがある。
 イズラエルは慌てて身を起こそうとしたが、
「くっ!」
 僅かに上体が上がっただけだった。まともに起きあがれるほど、回復していないようだった。
「無茶をなさらないでください、お兄様。起きあがるまでには、もう少し時間が必要です」
「………だってよ! 大人しく寝てろ。今日のところは、お前さんと戦う気はねぇ」
「何故、こんなところにいる!? ディール」
「ディールはファティマを助けてくれたのです」
「助けた!? 何からだ?」
「ホーゼンのジジイだよ」
 ディールは答えた。イズラエルは、彼の声しか聞くことができなかった。近くにいるのは気配で分かるのだが、視界に姿を捉えることはできなかった。
「ホーゼンだと!? やつがファティマに何をした!?」
「さぁな。知りたきゃ、直接ジジイに訊きな。お前さんがひとりで訊きにいきゃあ、さすがの鬼ジジイでも、教えてくれるかもしれんぜ?」
 ディールの今の言葉には裏があった。イズラエルはその裏の意味を、瞬時に感じ取っていた。
「ファティマの前では話せない」
 ディールはそう言っているのだ。それが何を意味することなのか、イズラエルは分かっていた。それが大司教ホーゼンの目的のひとつだからだ。ここでようやくイズラエルは、ファティマがやつれている様子を思うに至った。彼女から生気が薄らいでいるのは、そのためだったのだ。顔を天井に向け、悔しげに唇を噛む。
「“芽”は出たのか………?」
 ゆっくりと言葉を吐き出すように、イズラエルはディールに尋ねた。
「まだのようだ。しかし、兆候はある」
 ひどく言いにくそうに、ディールは答えてきた。普段の彼の言動からは想像できないほどの重苦しい声で。
「何のお話?」
 ファティマは愛らしい瞳をクルリと回転させながら、イズラエルの顔を覗き込んだ。
「ジジイの計画に関する話だ。嬢ちゃんには、あまり関係のないことかもしれんな」
 イズラエルが答え(あぐ)ねていると、ディールがその場を上手く取り繕ってくれた。
(ファティマは気付いていない………)
 ファティマの様子から、彼女は自分の身に起こったことにまだ気が付いていないと感じられた。だからディールが気遣い、回りくどい言い方をしてきたのだ。この男、無神経だと思っていたが、案外気の回るやつだ。と、イズラエルは思った。ディールの配慮に、感謝しなければならない。
「それにしても、ディール。お前が“ラピュタ”にいるとは意外だった」
「そうかい?」
 薄ら惚けたような、ディールの声が返ってきた。
「ところで、どうすんだい? これから。ジェラールとは上手くいかなかったんだろ? ま、当然だわな」
「お前はいろいろと知っているのだな………。俺を殺すのなら、今がチャンスだぞ」
 イズラエルのその言葉を聞いたファティマは、驚いたような表情をして、首を後方に巡らせた。その方向に、ディールがいるのだろう。
「そうしたいのは山々なんだがね。そんなことをしたら、嬢ちゃんが悲しむ。俺は嬢ちゃんの大ファンだからな。嬢ちゃんが悲しむことはしたくない」
「どこまで信用してよいものやら………」
「お前さんが眠っている間に、状況がいろいろと変わっちまった。取り敢えず、今のところは生かしておいてやるよ。それに、今や嬢ちゃんを守れるのは、お前さんだけだからな」
「ディールはファティマを守ってくれないの?」
「悪いが、俺には他に守らなきゃならねぇやつがいる」
 ディールが小さく笑ったのが分かった。
「ヤボはこれくらいにして、俺はそろそろ帰るとするか………。お前たちは事が済むまで、ここを動くなよ。下手に動くとホーゼンのジジイに見つかる。やつに見つかるわけにはいかないんだぞ」
「でも、お母様が………。お兄様が無事なこともお知らせしないと………」
「嬢ちゃん。マザーのことは忘れろ。イズラエルと一緒になりたいのならな」
「ディール!」
「照れるな、照れるな。益々怪しいぞ?」
「もう! 知らない!!」
 ファティマは怒ったように頬を膨らませ、ソッポを向いてしまった。ディールの馬鹿笑いが、しばらく部屋中に響いた。
「ジジイは俺たちが倒してやる」
 その言葉を最後に、ディールの気配は消失した。
「ファティマ、状況を知りたい。現在どうなっているのか、話してくれ」
 イズラエルは、ゆっくりとした口調でファティマに問い掛けた。

「バルバロッサ、参りました」
「入れ」
 自室で休息を取っているサラディアの元に、バルバロッサが現れた。豪華な調度が配置されているそのサラディアの自室は、目が痛くなるほど派手な飾り付けがされている。とても船の中の一室とは思えない程の豪華さだった。
「船体の回復状況はどうか?」
 ソファーに深々と腰を沈め、優雅に足を組んでいたサラディアは、肉食獣を思わせる瞳をバルバロッサに向けた。
「程なく回復するでしょう。ヴィルジニテが“抵抗”しているようですが、自動修復機能には逆らえませぬ」
「もうひとつの船は?」
「〈レコンキスタ〉を撃破後、北に向かったようです」
「お前はどう推測する?」
「“ラピュタ”へ向かうものを推測します。セーラー戦士が同行しているのなら、尚更です。あの地には、大司教ホーゼンによって呼び込まれた仲間たちがおりますから。それに、聖櫃(アーク)もあります。ジェラールが放っておくとも思えません」
「“ラピュタ”へ向かうと言うのは、あたしも同意見だよ。だけど、あそこにはもう聖櫃(アーク)はないよ」
「は? 何と申されました?」
聖櫃(アーク)はもうない」
「なんと………」
 バルバロッサは、溜め息のように言葉を吐き出した。
「ホーゼン………思っていたより間抜けだったようだよ。あたしらは、とんでもない間抜けに仕えていたらしい」
 サラディアは呆れたような笑みを浮かべた。失態を犯したホーゼンに対してなのか、そのホーゼンに従っていた自分に対してなのか、バルバロッサには分からなかったが。
「自分の失態の尻拭いを、こっちに振って来やがったよ」
「我々に聖櫃(アーク)を探せと?」
「ああ。それだけじゃない。セレスの始末も押し付けてきた」
「セレスを始末ですか………。あの娘、何か失敗を犯しましたかな?」
 バルバロッサは、まだセレスが組織を離反したことを知らなかった。それはサラディアも同じであった。
「さぁてね。どうでもいいさね、そんなこと。始末しろと言うんだから、始末してあげようじゃないか」
「分かりました。では、ル・マニフィックを差し向けましょう。あやつならば、セレスに返り討ちに遭うことはないでしょう」
「うむ。そうだねぇ」
 サラディアの返事は、どこか冷めていた。あまり興味がないと言った感じだった。サラディアにとっては、セレスなど端から眼中にはなかったからだ。
「………聖櫃(アーク)、探すおつもりですか?」
 バルバロッサは、探るような視線を向けてきた。
「馬鹿なことをお言いでないよ」
 サラディアは肩を竦める。
「しかし、無視もできますまい。サン・プールにやらせましょう。やつも失態を犯した身。そのくらい役に立ってもらわねばなりません」
「そうだねぇ。そうしようか」
 満足そうにサラディアは笑った。何かを思い付いた時の表情だった。バルバロッサは表情を変えることなく、厳つい表情のままサラディアを見下ろしていた。次の指示を待っているのだ。バルバロッサ自身、様々な考えを持っているが、指示されたこと以外は口に出さない。サラディアは行動を先読みされることを極度に嫌うからだ。出過ぎた真似は、自らの身を滅ぼしかねない。
「ジェラールも“ラピュタ”の正確な位置までは分かるまい。教えてあげようじゃないか、あたしたちでさ」
「妙案ですな」
「楽しくなりそうだねぇ」
 サラディアは愉快そうに、頬を緩めた。
 
 特別に(あつ)えられた祈りの間に、大司教ホーゼンはやって来ていた。眼前には魔の十字架。
 大司教ホーゼンは憮然とした表情で、その十字架を見つめている。
「忌々しい人間どもめ………」
 大司教ホーゼンは言葉を吐き捨てる。

―――時は熟した。

「!?」
 唐突に頭の中に響いてきた声に、大司教ホーゼンはギョッとして十字架を抱き抱えている悪魔の像の顔に目を向けた。作り物の像が言葉を発するわけではないのだが、咄嗟のことに思わず顔のある部分に目を向けてしまったのだ。
 随分と人間くさい行動を取るようになったものだと、大司教ホーゼンは自嘲気味に薄く笑う。

―――どうした?

 掠れたような、囁くような、ひどく耳障りな女性の声。抗うことを許さない威圧的な響きがある。
「いえ、何でもありません。いささか、人間世界に慣れすぎたようです」
 見透かされているようなので、特に弁明をするつもりはなかった。

―――最期の仕上げじゃ。わらわは間もなく“実”を付ける。復活の時じゃ。

 ついにその時が来るのか。
 ホーゼンは思う。
「承知致しております。こちらも万事、用意が整ってございます。“弾”となる人間を十二分に集めております。憎き月の王国の者どもも、手の届く範囲に………」

―――そうか。長きに渡り苦渋を舐めさせられた月の王国の者どもに、目にもの見せてくれようぞ。

「御意」
 ホーゼンは十字架に向かって、深々と頭を下げた。

「さて、どうするか………」
 浮遊戦艦カテドラルの甲板の先端に立ち、スプリガンは眼下を見下ろす。〈カテドラル〉は湖に着水していた。〈カテドラル〉の前方、湖畔の小高い丘の上に封印の神殿があり、今現在、そこにマザー・テレサや大司教ホーゼンがいる。湖の周りは密林に覆われ、一画には険しい山々も聳えている。その山の向こうに、転移させてきた十番病院があるはずだった。
「『浮遊する島』とは、よく言ったもんだぜ」
 改めて“ラピュタ”を見渡すと、その巨大さに感心してしまう。“ラピュタ”は縦に約三百キロメートル、横に約百キロメートルの、一角が極端に鋭角に突き出た菱形をしている。ブラッディ・クルセイダースの組織内では、便宜上その「突き出た一角」を「前」としている。何故正式にその部分を「前」と呼べないのかと言うと、“ラピュタ”は一定方向に向かって「飛行」しているわけではないからだ。その「突き出た一角」を船首として「飛行」しているのなら、そこが「前」と呼べる訳だが、実際にはそうではないのだ。“ラピュタ”はどこに向かうでもなく、ただ空中に「浮遊」しているだけなのだ。“ラピュタ”が「飛行する島」ではなく、「浮遊する島」と呼ばれているのもそのためだ。だから、「便宜上」なのである。推進装置らしきものは発見できたが、完全に沈黙していた。かつては生きていて、「飛行」をしていたのだろうが、今では地上に落下しないことが不思議なくらいだ。どんな原理で「浮いて」いるのかさえ、ブラッディ・クルセイダースの超科学力を持ってしても、皆目見当も付かなかった。
「どうなさるおつもりですか?」
 僅かに後方に待機していたワルキューレが、遠慮がちに声を掛けてきた。
「なんか考えがあるんなら言ってみな。十三人衆になったんだ。俺に遠慮することはねえ。お前はもう俺の部下じゃない」
「それではひとつだけ………」
 僅かに思案した後、ワルキューレは口を開いた。
「ホーゼンとマザーをこのままにしておくのは、得策ではないと感じます」
「おいおい、マザーもか?」
「はい。最早マザー・テレサは我が組織の象徴でしかありません。組織を束ねるために象徴が必要だと仰るのであれば、マザーではなくファティマでも充分です。カリスマ性は、マザーよりファティマの方があると思います。それに、マザーはホーゼンに頼りすぎています。危険です」
「………だよな」
 スプリガンは腕を組んだ。
「ま、状況を見ながら考えるさ。取り敢えずは、最も目障りな連中を始末することにしようぜ」
「セーラー戦士ですね?」
「生け捕りにすんのがベストだが、無理ならばぶっ殺す」
「良いのですか? ホーゼンは捕らえよと言っていたはずですが?」
 艶めかしい笑みを、ワルキューレは向けてきた。からかっているだと分かった。スプリガンは、愉快そうに笑む。
「ワルキューレぇ。さっき、何て言ったよ、お前は………」
「そうですね。矛盾しておりました」
 ワルキューレはコロコロと鈴が転がるように、楽しそうに笑った。
「さてと、そろそろお楽しみの時間と行こう」
「お怪我の方は、もう宜しいのですね?」
「どこを見ている。ちゃんと“生えて”来た」
 スプリガンは右腕を突き出して見せる。失った肘から先は、完全に元通りに再生されていた。
「分かりました。タンクレード殿にも動いて頂きましょう」
「ああ、あいつならもうスタンバってるぜ。まずは、連中の戦力を分断させる」
 スプリガンはワルキューレの顔に目を向けると、ニタリと笑った。