再会
「今日は、ありがとうございました」
十番商店街の入り口で、うさぎは十文字に軽くお辞儀をした。
太陽が西に傾いている。間もなく美しい夕焼けが見られるだろう。
「いや、俺の方こそ礼を言わなくちゃ。まさかキミの方から誘ってくれるとは思っていなかったから」
照れ臭そうに答えているのは、十文字である。
「この間のお礼です」
うさぎとしては、十文字にタワーランドで助けてもらったお礼として、軽い気持ちでデートに誘った。父親に貰った映画のチケットがあったので、一緒にどうかと誘ったのがきのうのことだった。
しつこく言い寄る十文字に対して、多少の抵抗はあったものの、身を挺して助けてもらったことへのお礼だけはしなければと思い、デートに誘ってみたのである。もちろん、仲間には内緒である。反対されるのに決まっているからだ。
十文字は大変喜んでくれた。十文字が自分に対して好意を抱いているのは知っていたから、軽い気持ちで誘ったうさぎとしては、少々複雑な気持ちになった。
今までうさぎは衛一筋だったのである。“クラウン”の元基に心惹かれた時期もあったが、つき合っていたわけではない。恋人としてつき合ったのは衛だけだし、ファーストキスの相手も衛である。もちろん、「初めて」の男性も衛と心に決めていた。しかし、最近は衛とのすれ違いが多すぎる。衛がドイツへ渡った直後はよく国際電話が掛かってきたり、うさぎからは三日ごとに手紙を書いていた。それなのに、五月に入った頃から殆ど連絡が取れなくなってしまったのだ。
夏休みには帰る。
衛のその言葉を信じて待っていたうさぎだったが、衛は行動で示してはくれなかった。衛のドイツの留学先の大学も夏休みに入っているはずである。なのに連絡がない。亜美からの連絡で、衛がアパートを留守にしているのは聞いている。隣人の話では、日本に帰ると言っていたらしいと言う。自分に連絡をくれないのは何故なのか、うさぎには理解できないことであった。
そんな不安な毎日を送っている中、十文字という男性が自分の前に現れた。自分に好意を持ってくれている男性である。彼は優しかった。例えその男がプレイボーイだとしても、うさぎの心が動いてしまうのは、自然の成り行きのように思えた。
「今日のお礼をしたいんだけど、いいかな?」
遠慮がちに十文字は尋ねてきた。ドキリとして、うさぎは十文字の顔を見つめた。予測していた言葉だったが、すぐにOKできるほど、うさぎは十文字に対して心を開いてはいない。うさぎの心には、まだ衛が強く住み着いているのだ。
「お礼なんて………」
うさぎは困ったように呟くと、口ごもってしまった。
十文字はそんなうさぎを愛おしそうに見つめてから、
「是非お礼をさせてほしい」
強い口調でそう言った。うさぎは返事ができない。どう答えたらいいのか、考えあぐねてしまっていた。すぐに断ってしまったら、十文字が傷つくのではないかと考えてしまった。
「あ、あたしそんなつもりで………」
そこまで言ってから、口を噤んでだ。そんなつもりでなかったら、どういう理由で今日十文字を誘ったのだろう。心の中で、そう自問した。
「俺なら、キミに寂しい想いをさせることはしない」
十文字はうさぎの肩を抱き寄せると、そう言った。
うさぎは胸の高鳴りを感じていた。今まで衛にしか抱いたことのない感情を、十文字に対しても抱き始めている。そう感じた。
「あれ!? うさぎちゃんじゃない?」
夢のような一瞬は、すぐに現実に引き戻された。うさぎはドキリとして十文字から離れると、声のした方に顔を向けた。
「レ、レイカさん!?」
喉から心臓が飛び出すのではないかと思えたほど、その驚きは大きかった。十文字と一緒にいるところを、できれば知人には見られたくなかったのだ。
十文字とふたりでいるうさぎを見つけたレイカは、ふーんという風に二‐三度首を縦に動かした。
「ちょっと会わない間に、地場君と別れちゃったんだ。地場君もあの通りのハンサムだから、大学でも人気あったしね」
勝手な憶測で、レイカは喋り出した。そう言われれば、レイカは衛の大学の先輩であった。うさぎの知らない衛を、レイカは知っている。不真面目な元基と違い、勉強熱心なレイカは、学内で衛と顔を合わす機会も多かったはずだ。
うさぎは慌てて訂正する。
「い、いえ! そんなことないです! まもちゃんと別れるなんて………!」
「いいのかなぁ? 彼の前でそんなこと言っちゃって」
レイカはちらりと十文字に視線を向ける。その表情が僅かに曇った。十文字の顔に、見覚えがあるようだった。
「うさぎちゃん、ちょっと………」
レイカはうさぎの手を引っ張ると、自分の方に引き寄せた。少しばかり移動し、十文字から離れると、
「よりによって、何であんなやつとつき合ってるのよ!」
小声で囁くように言った。
「あいつ、もの凄い遊び人よ。うちの大学でも被害に合っているコ多いんだからね。気をつけなよ。あいつ、女の子だったら、だれとでもエッチしちゃうわよ」
「え!?」
確か、以前海野となるちゃんもそんなことを言っているような気がすると、うさぎは思った。十文字の噂で良い噂はひとつも聞いたことがない。うさぎと接している十文字からは、とても想像はできないことであった。
「やつの“手”なのよ。今あいつ、物凄くやさしいでしょ? 初めは優しくして相手を油断させておいて、そのうち強引に迫って来るらしいのよ。妊娠しちゃったコだっているんだから」
「そ、そんな………」
うさぎは絶句する。妊娠とはただ事ではない。
「あいつ、相手の住所や電話番号は聞くんだけど、自分のは絶対に教えないのよね。………教えて貰ってないでしょ?」
うさぎは肯いた。確かに、十文字の連絡先を聞いていない。尋ねたこともあったが、うまくはぐらかされたような気がする。今日の約束は、街で偶然十文字を見掛けたときに、うさぎの方から誘ったのだ。
「悪いことは言わないから、早くあいつとは縁を切った方がいいわよ。手遅れにならないうちに………」
レイカの離れた位置の十文字に気を配りながら、真剣な表情で話す。
「ねえ、うさぎちゃん」
レイカは続けた。
「もし地場君と喧嘩しているなら、早く仲直りした方がいいわよ。さっき“クラウン”の前で会ったから、まだその辺にいるんじゃないかしら………」
レイカのその言葉は、うさぎの体を嵐のように通り過ぎていった。
「え………!? まもちゃんと会ったんですか………?」
「え、ええ。妹さんらしい女の子を連れてたから、ちょっとしか話さなかったけど………」
「まもちゃんの妹………?」
怪訝そうな顔をするうさぎには気づかずに、レイカは、
「悪いことは言わないから、あいつとだけはつき合うのはやめなよ。手遅れにならないうちに………」
もう一度同じことを言うと、十文字の視線を気にしながら、逃げるように歩き去ってしまった。
「あ、待ってレイカさん!」
衛の話をもう少し詳しく聞きたかったので、うさぎはレイカを呼び止めたが、足早に歩いていくレイカの耳には、うさぎの声は届かなかったようだ。
「お団子………」
背後から、遠慮がちな十文字の声が聞こえてきた。うさぎは振り向くと、
「ごめんなさい! また連絡します!」
十文字に目線を合わせないようにして告げると、レイカを追って走り出した。どうしても衛のことを聞きたかったのだ。レイカはこのすぐ近くで衛に会ったと言っていた。やはり衛は日本に帰ってきているのだ。
人混みに紛れてしまって、レイカの姿は見えなくなっていた。だが、捜さなくてはならない。
うさぎは憑かれたように、夕方の十番街をレイカの姿を求めて走った。
そのうさぎの視界に、不意に飛び込んできた青年の姿があった。すらりと伸びた身長。濡れたような光沢を放つ黒髪。忘れようとしても忘れることの出来ない、その見慣れたシルエット。
うさぎはその場で硬直してしまった。息をするのも忘れて、その青年の姿を見つめてしまった。青年は真っ直ぐにこちらに向かって歩いてくる。青年は、まだうさぎのことに気づいていない。彼の左側を並んで歩く、可愛らしい女の子と楽しそうにお喋りをしている。
(まもちゃん!)
うさぎは心の中で叫んでいた。声に出したつもりだったのだが、声にならなかった。
(まもちゃん! あたしはここよ! ここにいるのよ!! どうして気づいてくれないの!?)
衛と並んで歩いている女の子が、うさぎに気づいた。自分の方を見つめている視線に気づいたのだ。立ち止まって、うさぎを見つめる。
突然立ち止まったことを不思議に思ったのか、衛はその女の子の視線の先に目を向けた。
「うさ………」
目を見開いたまま、衛は立ち止まった。衛の隣にいる女の子が、不思議そうに衛の顔を見上げた。
「まもちゃん………」
やっとの思いで声を出したうさぎは、衛に向かって数歩歩み寄った。
「帰ってきてたの………?」
「あ、ああ………」
衛から帰ってきた返事は、曖昧な一言だった。うさぎはそんな一言を待っていたのではない。もっと、他の言葉を掛けてもらいたかったのだ。
「このヒト、もしかして………」
衛の横にいる女の子の声を聞いた瞬間、うさぎの足は止まった。衛までは、まだ三メートルくらいの距離があった。
自分より年下の女の子だった。中学一‐二年生だろうか。腰の少し上の辺りまである髪が、夕方の涼しげな風にサラサラと揺れている。黒い美しい光沢を放つカチューシャが、夕陽をキラリと反射させた。
「日本に帰ってきてるのなら、どうしてあたしにひとこと言ってくれないの? ずうっと、待ってたんだよ………」
うさぎの女の子のことは口に出さなかった。いや、出せなかったのである。衛の口から、彼女のことを聞くのが怖かったのだ。
「ごめん………」
懐かしい、低い声だった。衛の声だ。だが………。
「どうして謝るの? 謝られたって、あたしは嬉しくない。それとも、彼女が一緒にいるから、あたしとは話せないの?」
「いや、彼女は関係ない。うさ、これには理由がある」
衛は数歩、うさぎに歩み寄る。その背後で、
「理由( なんて、あるわけないじゃない!」)
意地の悪そうな声が飛んできた。衛の連れている女の子だった。
「あなた、捨てられたのよ。分からないの? 今は、あたしが“まーくん”のカノジョなんだからね」
うさぎにとっては、もっとも聞きたくなかった台詞である。もっとも恐れていた言葉だった。自分より年下の、しかも中学生だろうと思われる女の子である。うさぎの女としてのプライドが、著しく傷ついた。自分は中学生に負けたのか?
「操( !!」)
叱るような、衛の声が飛んだ。顔を上げたうさぎの目の前には、衛の背中があった。
あまりにも強い口調で叱られたので、その操という女の子は思わず首を縮めた。
「な、なによぉ! あたしはただ………!」
反発して口を尖らせた。態度では怒っているような素振りだが、目は怒ってはいない。むしろ楽しそうだった。
「仲、いいんだね………」
今にも消え入りそうなうさぎの声が、衛の耳を打った。衛はハッとなって、うさぎに視線を戻した。
うさぎはその衛の目を一瞬だけ見つめたあと、輝くような笑顔を浮かべると、
「さよなら!」
くるりと背中を向けて駆け出してしまった。
「うさ!」
「あ! 待って!!」
自分を呼び止めようとする衛と女の子の声が聞こえたが、立ち止まることはできなかった。訳も分からず、その場から逃げるように走る。涙があとからあとから溢れ出てきた。
どこをどう走ったのか覚えていない。気が付くと、一の橋公園に立っていた。
自分と衛の思い出の場所だ。無意識のうちに、ここへ来てしまっていたのだ。
「お団子………」
声が聞こえた。うさぎはゆっくりと振り向く。
十文字が立っていた。何故彼がここにいるのか、今のうさぎには思考を巡らせている余裕はなかった。
うさぎは思わず、十文字の胸に飛び込んでいた。