憂鬱なもなか


「もなか! もなかってばぁ! ちょっとぉ!! ねえ!」
 背中をバンバンと力任せに叩かれ、もなかはようやく我を取り戻した。
「ほえ!?」
 素っ頓狂な声を上げて、背中を叩いた友人の顔を見た。心配そうに覗き込んでいる奈々の顔が、間近にあった。
 惚けた顔をしたまま、素っ頓狂な声を上げるもなかを見て、奈々は更に不安げな表情になる。
 午前中の部活動に参加して、帰りの下駄箱である。上履きをしまい、下履きの靴を持ったところで、もなかは電池の切れたおもちゃのロボットのように、ピタリと止まってしまていたのだ。ちなみに、ふたりは陸上部である。奈々は短距離とハードルを得意とし、もなかは短距離と高飛びを得意としていた。ふたりとも陸上部のホープとして、十番中学校の期待を一心に背負っている。
 突然動きを止めてしまったもなかを見れば、奈々でなくても心配して声を掛けてしまうだろう。
「ねぇ、もなか。何か心配事でもあるの? 最近おかしいよ」
「え!? 何でもないよ………」
 もなかは明るく答えたつもりだったが、表情は冴えなかった。奈々には強がりは通用しなかった。
「あたし思ったんだけどさ。もなかがそんな風に考え事が多くなったのって、月野先輩たちと付き合い始めてからじゃないの?」
 奈々の考えは的を得ていた。もなかの憂鬱の原因は、自分がセーラー戦士でありながら、戦いの足手まといにしかなっていないことと、大切な太陽の宝珠を無くしてしまったからなのだ。太陽の宝珠さえあれば、戦いのサポートは容易にできるのだが、今の自分は全くの戦力外なのである。
「月野先輩たちと、何をしているの?」
 奈々の心配も分かる。奈々は自分がうさぎたちと良くないことをしているのではないかと、誤解しているのである。
「うさ姉たちはいい人たちだよ。奈々が思っているようなことは、何もしてないよ」
「でも………」
 言いかけた奈々だったが、ふたりを呼ぶ声に言葉を飲み込んでしまった。
「こんな蒸し暑い下駄箱で、何立ち話なんかしてるんだよ」
 声を掛けてきたのは、月野進悟である。サッカー部の進悟も、午前中グラウンドで汗を流していた。練習を終え、彼も帰るところなのだろう。
「うちの馬鹿姉貴が、何かしたのか?」
「聞いてたの?」
 立ち聞きされたと感じた奈々は、あからさまに嫌な顔をした。僅かに眉を跳ね上げる。
「ああ、姉貴がどうしたって言ってたところだけな。別に立ち聞きしてたわけじゃないぜ、たまたま聞こえたんだ」
 進悟は言いながら、靴を履き替える。
「ま、あんたは立ち聞きするような人間じゃないとは思うけどね」
 さらりと答える進悟の言葉を耳にすると、奈々は少しばかりホッとしたような表情をした。
「知った風なことを言うなよ」
 奈々の言い草に口を尖らせていた進悟だったが、元気のないもなかが気になったのか、進悟は思わず怪訝そうに彼女を見てしまった。
「え!? 何よぉ!」
 自分が見つめられていたことに気づいたもなかは、僅かに頬を赤らめて、進悟に文句を言った。
「元気のない太陽なんて、気持ち悪いぞ!」
 相変わらず口の悪い進悟は、もう少し気の利いた言葉を掛けようと思ったのだが、口から出た言葉は、こんな言葉だった。
「気持ち悪くて、悪うございました!」
 もなかはアカンベーをすると、奈々を連れ立ってそそくさと下駄箱を出ていってしまった。
「なんだい、元気あるじゃん!」
 小さくなっていくもなかをお尻を眺めながら、進悟は文句を口に出した。だが、言葉とは裏腹に、内心はホッとしていたのだ。

 十番中学の正門を出ると、例によってアポロンが待っていた。塀の上で待っていた彼は、もなかを見つけるとふわりとジャンプして、彼女の肩に飛び乗った。
「忠犬ハチ公のような猫よね。いつもここでもなかのことを待ってるんだから」
 奈々は感心してみせた。もかなの肩に乗っているアポロンの喉を、優しく撫でてやる。あまりに気持ちがいいので、アポロンも思わず目を細めてしまう。
「あれ? ほたるちゃんだ」
 アポロンに気を取られていて気が付かなかったが、正門の脇にほたるがT・A女学院の制服のままちょこんと立っていた。彼女も部活動の帰りなのだろう。
「もなかぁ。まさかあんたの知り合いなの? 何で、あんなお嬢様学校に知り合いがいるわけ?」
 奈々にとっては別世界のお嬢様学校である。それなのに、そのお嬢様学校にもなかの知り合いがいるとは信じられないのだ。もなか、イコールお嬢様という等式は、小学校時代からの友人である奈々には、絶対に導き出せない答えである。
「あ! め、冥王ほたるちゃんだ!」
 少し遅れて正門のところにやってきた進悟は、ほたるの姿を見た途端、緊張して体を硬直させてしまった。
 進悟の姿を見たほたるは、少しばかり困った表情をした。進悟が自分のことを好きらしいということを、うさぎたちから聞かされていたからだ。妙に意識してしまう。
「え!? 月野君も知ってるの? あんた、いったいどういう子?」
 やや挑戦的な表情で、奈々はほたるに詰め寄った。ふたりが知っていて、自分が知らないということが納得できないらしい。おまけにほたるは美人である。妙なことで敵を作りかねないのだ。
「え!? あ、あのぅ………」
 ほたるにしてみれば、もなかに用事があったからわざわざ正門で待っていただけのことであって、別に奈々に尋問されるために来たわけではない。奈々の勢いに圧倒されて後ずさってしまったが、ほたるとて何故このように挑戦的な態度で尋問されるのか、合点がいかない。理不尽である。が、ほたるの性格からして、奈々に突っかかるような真似はできない。
「う、家の姉貴の知り合いなんだよ! ほたるちゃんが怖がってるじゃないか! そんなに突っかかるなよ!」
 溜まりかねて、進悟が奈々の左手を自分の方に引っ張った。だが、奈々にはうさぎの知り合いと言う言葉が引っかかった。もなかの憂鬱の原因がうさぎにあると思い込んでいる、奈々の早合点である。
「あんた! もなかに何の用?」
 進悟の腕を振り払って、再びほたるに詰め寄った。奈々にしてみれば、進悟がどこの馬の骨とも分からぬお嬢様の肩を持つのが、面白くないのだ。
「え!? あたしは………」
 アポロンに言われて一緒に待っていただけと言いかけて、ほたるは慌てて口を噤んだ。ふたりから少し離れた位置にいるもなかは、肩に乗るアポロンに何ごとか説明を受けているらしい。おそらく、自分がここで待っていた理由を、もなかに話してくれているのだ。
「もなかにちょっかいを出すのはやめてよ! あんたたちと付き合うようになってから、もなかの様子がおかしくなったのよ!」
「な、何よそれ………」
 言い掛かりである。誤解も甚だしい。ほたるは絶句して次の言葉が出ない。
「あんたたちと付き合う前までは、あたしに何でも相談してくれた。だけど今は、あたしには何も話してくれない。ひとりで苦しんでる。あんたたちは、いったいもなかに何をさせているの!? ………以前の、元気だったもなかを返してよ!!」
 目に涙を溜めて、奈々はほたるの襟元を掴む。溜まっていた物が、一気に噴出してしまったようだ。ほたるは茫然として、その場に立ち尽くしているだけだった。言葉も出ない。まさかそんな風に言われるなど、夢にも思っていなかった。
 思わぬ展開に、ほたるは助けを求めるように、もなかと進悟に視線を泳がせた。
 もなかも茫然としてしまっている。取り乱した友人に言葉もなく、身を震わせてしまっている。アポロンが複雑な表情で、奈々を見つめていた。
「木下、お前どうしたんだ? おかしいぞ」
 ようやく進悟が声を掛けた。ほたるにしがみつくようにしている奈々を、強引に引っ張り寄せる。もなかの新しい友人の中には、目の前のほたるの他に、自分の姉も含まれている。元気のない理由をそう言う風に言われると、進悟としてもあまり気分はよくない。
「木下! 変だぞ、お前………」
 肩を揺する。我を忘れ取り乱していた奈々が、ようやく落ち着きを取り戻した。
「あ、ご、ごめん………」
 ようやく自分のしたことを理解した奈々は進悟の胸から離れると、進悟に一言詫び、次いでほたるに向き直った。
「ごめんなさい。あたし、変なこと言っちゃったね。気を悪くしないでね」
 ほたるに向かって、深々と頭を下げた。
「奈々ぁ、あんた疲れてるんじゃない? そりゃあ、最近付き合い悪かったと思うけど、何もそこまで飛躍して考えなくったって………」
 その場を取り繕うべく、もなかがやけに元気のいい声を上げた。もちろん、アポロンの入れ知恵である。とにかく、この場をどうにか切り抜けなくてはいけない。
「ねぇ、月野君。奈々を家まで送ってってよ」
「え!? 俺がぁ!?」
「へぇ………。そんな風に、言える立場なわけ?」
 すすうっと、もなかは進悟に近づく。
「プールでエッチな写真を撮ろうとしてたって、みんなにバラしちゃおうかなぁ」
 小声で進悟に耳打ちする。タワーランドでの一件のことを言っているのだ。
「ば、馬鹿! あれは俺じゃなくて!」
「でも、あそこにいたことは事実じゃない。そんな言い訳したって、誰も信じてくれないよ。特に、『春だぁ』はね」
 「春だぁ」とは、もちろん桜田春菜先生のことである。担任の先生の名前を出されては、進悟に勝ち目はない。しぶしぶ了承した。
「じゃあ、送っていくよ、木下」
「………うん」
 断るかとも思えたが、奈々は以外にもすんなりと進悟の申し出を受け入れた。奈々は進悟に付き添われ、力無くその場を後にする。
 途中で奈々は、何が言いたげに振り向いたが、既に正門の前にはもなかの姿はなかった。
「本当に、何でもないのかなあ?」
 不意に立ち止まって、奈々は言った。進悟も足を止める。
 進悟は薄々感づいていた。姉が何者であるのかを。その姉と付き合っているもなかも、もしかすると姉と同じなのではないかとも想像できる。しかし、今はその考えを口にすることはできなかった。ましてや、他人に話すことなどできるはずもない。
「俺には、分かんねぇよ」
 それが進悟の本心だった。

 もなかとほたるのふたりは、一端十番中学の敷地内に戻った。ほたるは部外者だが、仮に見つかったとしても、天下のお嬢様学校の制服を着ているので、簡単な注意を受けるだけですむだろうことは予想できる。それに夏休み中だから、そうそう見つかることはないだろうとも思う。
「彼女、本当にもなかのことを心配してるんだね」
 あれほど心配してくれる友達がいることが、ほたるは少しばかり羨ましくなった。自分には、奈々のように親しい友人はいないことが寂しかった。三十世紀の未来に帰ってしまったちびうさのことを、ふと思い出してしまった。ほたるにとってのちびうさは、かけがえのない友達であった。
「気にしないようにしていたつもりだったんだけど、奈々には隠せなかったみたい」
 憂いを秘めた瞳で、もなかはほたるを見つめた。セーラー戦士として覚醒しなければ、こんな思いはしなくてすんだのに………。彼女の瞳は、そう語っていた。口に出さなかったのは、自分がまだセーラー戦士として覚醒してから日が浅いことが分かっていたからだ。ほたるやうさぎとて、同じ思いをしてきたに違いないのだ。自分だけ泣き言を言うわけにはいかない。
「ところで、アポロン。何の用なの?」
 もなかは肩に乗ったままのアポロンに話しかけた。どうでもいいけど、楽をしすぎである。重いから、いい加減降りてほしいとも思う。
「そうよ。T・A女学院の正門の前であたしのことを待っていたと思ったら、今度は十番中学に行けだなんて、何か考えがあってのことでしょう?」
「もちろんだ」
 アポロンは力強く頷いてみせた。
「気になることがあってね。ふたりに調べて貰おうと思っていたんだ」
「あたしたちに?」
 ほたるは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。うさぎたちを差し置いて、自分たちに何をさせようと言うのか。
「うさぎたちに相談するのが筋だとは思うが、俺はもなかに戦士としての自信を付けさせてやりたいんだ。協力してくれないか? ほたる」
「い、いいけど。危険じゃないの? あたしたちふたりだけで大丈夫?」
「簡単な調査だよ。敵が出てくる可能性はあるが、十三人衆のような大物が出てくることはないと思う。もなかのレベルアップにもなるし、パワーダウンしている、ほたるの調整にもなるんじゃないか?」
 アポロンはほたるのパワーダウンを知っている。確かに、以前のような力を取り戻すには戦って勘を取り戻すしかない。それには余裕を持って戦えるザコ相手が最適だった。
「うさ姉たちには知らせないの?」
「知らせたら、危険だからって、付いてきてしまうだろ? そうしたら、意味がないじゃないか」
「それもそうだけど………」
 もなかにしてみれば、不安がないわけではない。むしろ不安だらけだと言っていい。何しろ、現在の自分は戦闘能力を殆ど持たないのだ。
「大丈夫。俺が付いてるよ」
 アポロンは自信満々である。パワーダウンしているほたるに比べれば、アポロンの方が安定している。それにセーラー戦士並に戦えるのは、ふたりもその目で見て分かっていることだ。
「分かったわ。それで、どこに行けばいいの?」
 妙な胸騒ぎを覚えながらも、ほたるはアポロンの考えに従うことにした。

 古ぼけたガラス戸を慎重に開け、まことは渡瀬診療所に入っていった。いつもの指定席に、お婆ちゃんが腰掛けて、居眠りをしている。
 まことは床に落ちてしまっている膝掛けを、お婆ちゃんが起きないように気を配りながら、そおっと掛けてやった。
 相変わらずギシギシとうるさい床を歩きながら、受付を覗き込んでみる。いつものように、人影はない。
 苦笑して、診察室の扉を開けて中に入った。
「ほんと、暇なんだね。この病院は………」
 がらんとしていて人の気配のない診察室で、まことは肩を竦めるしかない。
「夏恋さん! いますよね?」
 奥に向かって、声を掛けた。いないと一大事である。休憩時間でもないのに、医者が病院を留守にしているなどとは聞いたこともない。ましてや、この診療所には看護婦もいないのだ。夏恋がいなければ、ここは病院として意味を持たない。もっとも、肝心の患者の姿はないが………。
「夏恋さん?」
 もう一度声を掛けた。まこととしては別に診察に来たのではないので、夏恋がいないからと言って慌てることはないのだが、そう呑気なことは言ってられない。
「あらぁ! まことちゃんじゃない!」
 何ともはや呑気な声を上げて、夏恋が奥からやってきた。白衣は着ていなかった。花柄の派手なブラウスに、アイボリーのタイトスカートというスタイルだった。ブラウスは第二ボタンまで外していた。男性の目には毒である。動く度に、チラチラと下着が見える。
「あれ? 今日は休診日ですか?」
 夏恋の格好を見て、まことは首を傾げた。確かドアには診療中の札がぶら下がっていたような気がする。それにお婆ちゃんが診察室にいたから、休診日ではないと思っていた。
「うちの診療所は年中無休だよ! まあ、実際は見ての通り、開店休業中といったところだけど………」
 夏恋はオーバーに肩を竦めた。なるほどよく見れば、診察用の椅子に白衣が掛けてある。着ていないだけだったのだ。
「風邪はすっかりいいみたいね」
 血色のいいまことの顔を見て、夏恋は嬉しそうに言った。
「はい。おかげさまですっかり元気になりました。お礼と言ってはなんなんですが、クッキーを焼いたんで持ってきたんですけど、お嫌いですか?」
「大好物よ。風邪を治療したくらいでお礼を言われると気が引けちゃうけど、ありがとう、嬉しいわ」
 にっこりと微笑んで、夏恋はクッキーの入った包みを受け取った。焼きたてなのだろう、香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。
「あたしこそ、遊びに来たみたいですみません」
「いいのよ。どうせ暇だから………。ちょうど退屈してたところなの。ゆっくりしていってね」
 夏恋は本当に楽しそうに言うと、飲み物を用意すると言って奥に引っ込んでいった。しばらくすると、紅茶の香ばしい香りとともに、夏恋は戻ってきた。
 まことに患者用の椅子を勧めると、自分は診察用の椅子に腰掛けて、ティーカップにオレンジ色の紅茶を注いだ。
「な、なんか妙な感じですね」
 病院の診察室で医者と向かい合ってお茶を飲むなどとは、ドラマでもあまり見かけない風景である。少々居心地が悪い。
「大丈夫。すぐに慣れるわよ。あの唐変木なんて、たまにそこのベッドで大いびき掻きながら昼寝してるわよ」
 彼女の言う唐変木とは、おそらく一緒に暮らしているという男性のことだろう。口では憎まれ口を叩いてはいるが、表情は幸せそうである。まことの焼いたクッキーを口に入れると、間髪を入れずに「おいしい」という感想が返ってきた。
 彼女の言う唐変木殿は、今日はパチンコに出かけているらしい。まことが診療所に来た理由は、彼に会いたかったためでもあるのだが、いなければ仕方がない。彼があのオペラ座仮面にダブって見えた自分の感覚を確かめたかったが、今日は諦めるしかないようだ。
「ねぇ、まことちゃん。まとこちゃんはセーラー戦士って、知ってる?」
「え!?」
 唐突に質問されて、まことはたじろいでしまった。しかもセーラー戦士のこととなると尚更だ。
「ごめんなさい。あたし、そんなに変なこと訊いた?」
 答えに詰まっているようなまことを見かねて、夏恋は複雑な微笑を見せた。
「あ、いえ。突然質問されたもんだから、驚いてしまったんです。………セーラー戦士ですか?」
「ええ。あたし、半年前まではイギリスに住んでたから、日本のことはよく知らないのよね。この間珍しくうちに診察に来た親子連れが、セーラー戦士のことを話してたのよ。初めはテレビ番組のことを話しているのかと思ってたんだけど、よくよく聞いたら違うじゃない」
「でも、最近はアニメにもなってますよ。確か、土曜日の七時から、10チャンネルで放送してますけど」
「だけど、本当にいるんでしょ?」
「ええ。まあ………」
 まことは曖昧な返事をした。夏恋が何故セーラー戦士の話をし出したのか、その意図も分からない。
「まことちゃんは、見たことある?」
「は、はっきりとは見たことないんですけど、遠目にチラッとなら」
「そう………。あたしもチラッとだけだけどね」
「見たことあるんですか?」
「ちょっとね」
 軽い微笑をすると、夏恋は幾つめかのクッキーを口にした。まこといや、セーラージュピターと夏恋は一度顔を合わせているのだが、まことはそのことを覚えてはいない。もちろん、夏恋もまことがセーラー戦士だということは知らないわけだから、あの時会ったセーラー戦士の中のひとりがまことだったなどということは知る由もない。
「彼女たちって、正義の味方なの?」
「そうですよ」
「本当に?」
「もちろんです」
 思わず力が入ってしまった。夏恋は力説するまことにクスッと笑いながら、それでも急に真顔になって、
「みんなが勘違いしているってことはない?」
 そう質問してきた。
「勘違いって、どういうことですか?」
「あたしたちが勝手に正義の味方だって思っているだけで、彼女たちからしてみれば、別にそう言うつもりじゃないんじゃないかってこと」
 夏恋は遠くを見るような瞳になった。
「何故、そう思うんですか?」
 そういう考え方をする夏恋に、まことは興味を持った。確かに、自分たちはテレビ番組のような正義の味方でない。彼らのように、慈善事業をしているわけではないのだ。正に、命がけで戦っているのである。それが結果として、正義の味方のようなことをしてしまっているだけにすぎない。
「正義の味方なんて言葉は、テレビのヒーローにしか当てはまらないということよ。彼女たちだって、そんな風に英雄扱いされることを望んでいるわけではないと思うわ。そのつもりだったら、とっくに正体を明かしているはずだと思うもの。正体を明かさないのは、やっぱりできるだけ秘密裏に行動したいからなんだと思うわ」
「そうですね。ヒーロー扱いされるのは好きじゃないです。あたしたちはただ、自分たちが守りたいと思っているものを守ろうとしているだけで………」
 そんな風に言うまことを見て、夏恋は再びクスッと笑った。
「まことちゃん、まるで自分がセーラー戦士みたいね」
 まるで自分のことのように話すまことに、夏恋は鋭い突っ込みを入れた。まことはドキリとして夏恋を見る。迂闊だった。夏恋は勘のいい女性である。気づかれたかもしれなかった。
「あ! もうこんな時間! お婆ちゃん、まだ寝てるかしらね………」
 古ぼけた振り子の壁掛け時計に目をやった夏恋は、弾かれたように立ち上がった。時計の針は五時を示していた。
 待合室にお婆ちゃんの様子を見に行く夏恋の背中を、まことは複雑な気持ちで見つめていた。まことの戦士としての鋭い感性は、夏恋の内に秘められている星の輝きをこのとき敏感に感じ取っていたのかもしれない。だが、彼女がその自分の感覚に気づくまでには、もう少し時間が必要だった。

「ほたるちゃんが戻らない?」
 受話器を持つレイの表情が強張った。
 電話はせつなからだった。七時を過ぎたというのに、ほたるが部活動に行ったきり、戻ってこないと言うのだ。部活は午前中だけのはずだった。昨日は結局帰りが深夜になってしまったせつなは、仕事を早めに切り上げ、六時には帰宅していた。だが、ほたるが家に帰ってきた様子がない。部活を終えて、一度も帰宅せずにこの時間まで出歩いていることは、ほたるはまずなかった。それで同じT・A女学院に通うレイのところへ連絡をしてみたのだ。
「今日は何も催しはないはずよ。ほたるはどこかで道草をするような子じゃないし、あたしも午後学校に行ったけど、ほたるは見かけなかったわ。うさぎたちとゲーセンにでもいるんじゃないですか?」
 ほたるが自分からゲームセンターへ行くはずはなかったが、うさぎと一緒なら別である。ゲーム仲間の美奈子がいなくなってから、うさぎは新たなゲーム仲間を捜しているのだ。その標的にほたるがなったとしても、少しも不思議ではない。
「そう思ったんだけどね………。うさぎもまことも家には帰ってないのよ。念のため司令室にいるルナにも連絡してみたんだけど、今日はだれも来てないって言ってたわ」
「もなかは?」
「彼女も戻ってないわ。午前中の部活に出るんで、朝早く出掛けたらしいんだけど、出掛けたきり戻ってないようなのよ。もなかのお母さんも心配してたわ。それに、アポロンの姿も見えないらしいのよ………」
 自分たち以外のだれもが連絡が取れないというのが、かなり気になった。家にも連絡をしていないとなると、どこかで敵と交戦中か、また先日のほたるのように捕らわれてしまったかのどちらかのように思えた。しかし、敵と交戦中であれば、よほどのことがないかぎり、司令室のルナに連絡が入るはずだ。
 嫌な予感がする。
「あたしはとりあえず、司令室に行ってみるわ。レイも来てくれない?」
「分かりました。すぐに行きます」
 レイは受話器を置いた。不安が過ぎる。最近の自分たちは、どうもバラバラに行動しすぎる。以前のようなまとまりが、全く感じられない。これでは勝てる相手にも、勝てなくなってしまう。
「いつからこんな風になってしまったのかしら………」
 自問してみるが、答えなど弾き出せるわけはない。
「どうかしましたか? レイさん………」
 電話機の前で深刻な表情をしているレイを不思議に思ったのか、通りがかった優一郎が立ち止まって声を掛けた。相変わらず無精髭を生やしてはいるが、気の優しい青年である。異性であり、赤の他人である自分が一緒に暮らしていることで、レイのことをひどく気に掛けている。だが、ご機嫌取りとは違う。親身になって考えてくれているのだ。
「いえ、何でもないんです。………ちょっと、出掛けてきます。遅くなると思いますから、お夕食はおじいちゃんと先に済ませて下さい」」
 レイは笑顔を作って優一郎に答えると、そのままその場を後にした。