渡瀬診療所
夏休みに入ってから、一週間が過ぎようとしていた。
さらわれた陽子の行方は、依然として掴めていない。
そればかりではない。
ブラッディ・クルセイダース自体の動きが、あれ以来全くないのだ。
もなかが関与した謎の指輪の件は、一応全員に伝えはしたが、はっきり言って謎が多すぎた。情報を持っているらしいオペラ座仮面に直接尋ねない限りは、全く分からないだろうと思えた。
何にせよ、ブラッディ・クルセイダースが目立った動きを見せないことが不気味であった。
「嵐の前の静けさかも………」
そう言って、警戒を怠らないルナだったが、他にも気掛かりなことがあった。
フランスのアルテミスたちと連絡が取れないのである。音信不通と言っても過言ではない。向こうから一向に連絡が入らないし、こちらからの連絡も繋がらない。フランスでの状況が全く分からないのである。
フランスへ美奈子とアルテミスのふたりが渡った後も、ルナとアルテミスは連絡を密に取り合っていた。こうも何日間も連絡が入らないということは、今までで初めてのことだった。
一方、ドイツのみちるたちとの連絡も途絶えたままだった。ルーマニアに行くという連絡を亜美から貰ったのを最後に、こちらも音信不通であった。ルーマニアに行くと言う連絡を受けたのは、二日前のことだった。慎重派の亜美は、事件が起こってから毎日ルナに通信を入れて、国内外の情報を得ていた。二日も連絡がないということは事件が起こって以来、これもまた初めてのことだった。
ルナにとっては、不安な毎日が続いていた。
「今日も連絡がないのか?」
このところ、司令室に籠もりがちなルナの体を気遣って、様子を見に来たアポロンが尋ねた。
ルナは無言で首を横に振るだけだった。
「体、壊しちゃうよ。たまには外の空気でも吸った方がいいよ」
アポロンのお供で司令室に来たもなかが、心配そうに言った。ルナは見るからに疲れたような表情で、それてせもにっこりと微笑む。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
ルナは答えたが、もなかが安心できるような力のある声ではなかった。
「ルナ………」
「そうね。ちょっと外の空気を吸ってくるわ」
ルナはそう言うと、もなかの足下をすり抜けて、司令室を後にした。
「あぁぁぁ………。駄目だぁ………。フラフラするぅ………」
額を押さえながら、まるで夢遊病者のようにフラフラと歩くまことは、電柱を見つけてもたれ掛かると、とても他人には聞かせられないような情けない声を出した。
風邪である。間違いなく。
ここ一‐二ヶ月はハードスケジュールだった。それが祟ったのだろう。それが夏休みに入った開放感からか、ドッと疲れが出てしまったのだろう。と、言うのがきのうパーラー“クラウン”で話をしていたときの、宇奈月とレイの意見だった。
夏の暑さも手伝って、かなり体が怠かった。寝起きに体温計で熱を計ったら、三十八度もあった。今はもう少し上がってしまっているだろうと思う。平熱の低いまことにとって、三十七度を越えただけでも、かなり体が辛くなってしまうのだ。三十八度に達してしまったら、天と地がひっくり返っているかのような錯覚に囚われる。
渡瀬診療所と書かれている小さな診療所の前で、まことは足を止めた。半年くらい前に開業した個人病院である。若い女医がひとりいるだけの小さな病院だと聞いてはいるが、まことには今まで縁のないところだった。元来、まことは体は丈夫な方なのだ。風邪など滅多に引いたことがない。
十番街には十番病院と言う大きな病院がある。しかし、元麻布にあるまことのアパートからでは、歩くとけっこう距離がある。今の状態ではとても辿り着けるとは思えなかった。だから、自宅に近いこの診療所に来たのである。
まことは重い頭を上げて、診療所を見た。赤いレンガ造りの建物は、かなりの年数が経っていると思われ、ところどころひどく痛んでいた。端正な住宅街の中にあって、まるでそこだけ別世界のような感じがした。過去にタイムスリップでもしてしまったのではないかとさえ錯覚する。確か、以前は歯医者があったはずだとうさぎからは聞いている。うる覚えなのは、うさぎが小学校の低学年の時の話だからだ。
思い切り引いたら外れてしまいそうな木枠のガラス戸を開け、まことは診療所の中に入った。
懐かしい香りがした。
板張りの床は、かなり古ぼけていてる。スリッパに履き替えて足を踏み入れると、ぎしりと嫌な音がした。プロレスラーや関取などが来た日には、絶対に床が抜けてしまうだろうと思えた。
待合室には五人掛けくらいの椅子が、向かい合わせでふたつだけ置かれ、診察室の入り口のすぐ横の棚に、十五インチのモロクロのテレビが置かれていた。そのテレビの画面には、ワイドショー番組が映されていた。
クーラーは作動しているらしいのだが、決して涼しいと言えるほどではなかった。
薬品の臭いが、鼻を突いた。
待合室に患者はひとりだけだった。九十歳は越えていると思われるお婆さんが、椅子にちょこんと腰掛けてテレビを見ていた。
受付の窓口を覗いてみた。人の姿はない。
「すみません」
まことは窓口を覗き込んで、声をかけた。
返事がない。
「誰かいませんかぁ?」
まことはもう一度声をかける。
「おい! お客のようだぞ!」
つっけんどんな男性の声が、奥から聞こえてきた。それから、パタパタと歩いてくる足音が響く。床がギシギシとひしめいている。
「こんにちは」
白衣をラフに身に纏った女性が現れた。まだ若い。二十代前半だろう。看護婦ではないという第一印象だった。彼女が噂の若い女医なのだろうと、まことは思った。
「診察室へどうぞ」
初診の簡単な手続きを済ませると、若い女医はまことを診察室に招き入れた。
「あのぉ………。お婆さんが先じゃあ………」
まことはテレビを楽しそうに見ているお婆さんを、ちらりと見た。順番からすると、お婆さんの方が先のはずである。
だが、若い女医はお婆さんを見てにっこりと微笑むと、
「いいのよ、あのお婆ちゃんは………。どこも悪くないから………。いつも診療所に来て、テレビを見ているだけなのよ。夕方にはお帰りになるわ」
「そうなんですか………」
まことの不思議そうな視線を感じたのか、お婆さんはまことに目を向けると、にっこりと笑ってお辞儀をした。
つられてまこともお辞儀をした後、そそくさと診察室に入っていった。
「その様子じゃ、風邪を引いたわね」
まことの症状を診るなり、女医は言った。
「分かりますか?」
「あなたの様子を診れば、医者なら百人中九十九人は風邪だって答えるでしょうね」
「残りのひとりは?」
「医者の中にも、“やぶ”がいるってこと………」
「ああ!」
まことは笑った。
「そのひとりが、そこにいる女医さんだよ。ポニーテールのお嬢さん」
奥から男性の声が聞こえた。先程、まことが来たことを女医に教えた声だった。
「あんたは若い娘( が来ると、必ずそこにいるね」)
「俺がいるときに、若い娘( が来るんだよ!」)
「屁理屈ばっかり言ってないで、とっとと失せな! あんたがそこにいるあいだは、彼女は診察しないよ」
「ちぇっ!」
「ちぇっ! じゃないよ。仕事でも探してきな、甲斐性なし!」
「分かったよ、うるせぇなぁ」
男の声は悪態を付きながら、小さくなっていった。
女医はまことに視線を戻すと、小さく肩を竦めてみせた。チロリと舌を出す。
「あたしのひもなのよ」
「ひも、ですか?」
意外な言葉に、まことは聞き返していた。
「ろくに仕事もしないで、フラフラしてるだけ………。あたしの稼ぎで生活してるのよ」
女医は迷惑そうではなく、むしろ楽しそうに男のことを話した。今の関係を楽しんでいるようだった。
「ま、もっとも、まともに仕事はできそうにはないしね。サラリーマンてガラじゃないし………」
まことの胸に聴診器を当てながら、女医は呟くように言った。声だけしか聞いていないまことには、「ガラじゃない」と言われてもピンとくるものがない。
「あたしが拾ってやんなきゃ、あいつは野垂れ死んでたわよ。感謝して欲しいわね………」
「………もちろん、感謝してるよ」
診察室のドアが開き、二十代半ばの青年が顔を出した。ちょっと目には「いい男」である。
彼がその「ひも」なのだろう。奥で聞こえた声と、同じだった。
「あんたは、まだいたのかい! 女の子の診察中は、覗くなって言ってるだろう!? しかも、堂々と正面から覗きやがって、あんたは!!」
女医の言葉で初めて、まことは自分が胸を出している状態だということに気付いた。背中に聴診器を当てて貰っていたから、体はドアの方に向いていた。男性からは丸見えだった。
「きゃ、きゃあ!!」
まことは慌てて腕で胸を隠した。もちろん、今更である。
「もう、遅いよ。ポニーちゃん………」
男性は、しげしげとまことを見つめた。
「あんたの頭には、注射が必要なようね………」
ドスの効いた声で、女医は男性を睨んだ。手にはいつのまにか、巨大な注射器が握られている。殺気が診察室中に漲っていた。
「ど、どっからそんなモン持ってきたんだ!? それより夏恋( 、婆さん寝ちまってるぜ」)
男性は背後の待合室を、顎で示した。
「あら………」
夏恋と呼ばれた女医は、首だけ伸ばし待合室を覗き見た。長椅子に腰掛けてテレビを見ていたはずのお婆さんは、いつのまにやらぐっすりと寝入っていた。
「何か、掛けてやったらどうだ?」
「そうね」
夏恋は立ち上がると、奥から柔らかそうなタオルケットを持ってきて、お婆さんに掛けてあげた。
「じゃあね、ポニーちゃん。いい目の保養になったよ。アデュー!」
一連の動作を黙ってみていたまことに、男性はウインクをしてみせると、待合室の方から外に出ていった。
まことは胸を異性に見られた恥ずかしさを再び思い出し、耳まで真っ赤に染めて俯いてしまった。
「じゃあ、薬は二日分出しておくからね。注射も打ったから、よほどのことがないかぎり、それで治ると思うよ。でも、熱が下がらないようだったら、もう一度来てね」
夏恋は窓口で薬を渡しながら、まことに言った。
「はい。ありがとうございます。………でも、安すぎやしませんか? あたし、保険証ないんですけど………」
請求された額が、あまりにも少なかったため、まことは不思議がった。両親のいないまことは、保健に加入していない。だから、保険証がないのだ。
「サービス、サービス」
夏恋はにっこり笑うと、ウインクする。
「………でも」
「大丈夫よ。ここの病院は、区から補助を受けてるから………。それに、あのバカに胸を見せて貰ったから、そのお詫び」
夏恋はにっこりと微笑むと、まことに薬袋を手渡した。
まことはお礼を言うと、眠ったままのお婆さんをちらりと見てから、診療所を後にした。
家路に付いたまことの脳裏に、あの男性の声が響いた。
「ポニーちゃん」
男性はまことをそう呼んだ。その言い方が、あまりにもあの男に似ていることに、今更ながら気付いた。
「まさか………ね」
まことは歩いてきた道を振り返ったが、今の彼女には、自分の感じた疑問を解く術はなにひとつとしてなかった。
セレスは、暗い石造りの通路を歩いていた。蝋燭の明かりだけの通路は、見通しがとても悪かったが、慣れてしまえばどうということもない。その気になれば、全力で走ったところで、通路の壁にぶつかることはないだろう。
「よう、セレス………」
闇の中から声がした。セレスは立ち止まり、声の聞こえた方向に目線を移した。
「ギルガメッシュか………。まだ日本にいたのか………。イシス( と一緒に、帰ったんじゃなかったのか?」)
「イシス( は先に帰ったよ。安心しな」)
ギルガメッシユは、蝋燭の明かりに写し出されるように、闇の中から姿を現した。
「あたしに、何の用?」
「せっかく捕らえた女を、大司教に献上しなかったそうじゃないか」
「あの女は捕らえたんじゃない。あたしの大事なゲストなんだ」
セレスはうるさくまとわりつく蠅でも見るような目で、ギルガメッシュを見つめた。彼女たちの言っている「女」とは、陽子のことである。
「邪魔者は失せろという目をしているな………。じゃあ、大人しく退散するか」
苦笑いをしながら言うと、ギルガメッシュはくるりときびすを返す。
「あ、そうそう。ひとつ忠告しておくが、大司教( を甘く見ない方がいいぞ」)
背を向けたまま、ギルガメッシュは言った。
「ご忠告はありがたく聞いておくが、あたしもあんたに一言言っておきたいことがある」
「なんだい?」
ギルガメッシュは振り向く。
「あたしたちが本気を出せば、こんな組織は一瞬で潰すことができるんだ。あんたも死にたくなかったら、言葉遣いを注意した方がいい」
セレスの声は、ひどくドスの効いた声だった。本気だと分かる。彼女から発せられる殺気は、尋常なものではなかった。
ギルガメッシュは悟った。戦ったら、間違いなく自分が殺される。しかも、一瞬で勝負はつくだろう。セレスの力を感じ取ったとき、ギルガメッシュは青ざめた。
「あたしたち、だと………?」
絞り出すような声で、ギルガメッシュは尋ねた。
「そう、あたしたちよ………。直に分かるわ………」
「随分、自信ありげだな」
「余計な詮索をしない方がいいわよ。長生きしたいならね………」
セレスの笑みは、恐ろしいまでに不敵だった。