モンマルトルの丘


 パリの北東部に、小高い丘が聳えている。
 観光客の巡礼の地で有名な、モンマルトルの丘である。ノートル・ダム寺院や凱旋門、エッフェル塔等と並ぶ、パリの名所のひとつである。
 純白の聖堂サクレ・クール寺院を見上げながら、長い階段を上り終えた美奈子は、ぜいぜい喉を鳴らしながら、膝に手を付いて大きく肩で息をしていた。
「運動不足じゃないのか? 美奈………」
 額の汗を拭いながら、人の姿のアルテミスは言った。嫌みに聞こえなかったのは、アルテミスが美奈子に対して気遣っている言葉だったからだ。
「う、うるさいわね………」
 悪態を付いてみせる美奈子の声は、しかし、力がなかった。ここのところ、急激に体力が低下している。今まではなんともなかった運動も、すぐに疲れてしまう。変身できないことと、何か関係があるのだろうとは思うのだが、いかんせん、その変身できない理由が分からない。
 美奈子の体調は、日に日に衰えていた。
「大丈夫? 美奈………」
 セーラーエロス───愛園澪が労りの声をかけた。美奈子は心配ないという風に微笑んで見せたが、その表情には明らかに疲れの色が浮かんでいた。
 美奈子の表情で、彼女の体調不良を感じ取った澪は、その紫の瞳を不安げにアルテミスへ向けた。アルテミスも、「分かっている」という風に、小さく頷いた。しかし、どうしてやることもできないのが、彼らの現状であった。
「見て、美奈!」
 弾んだ声で、セーラーヒメロス───愛羽望が、クリームイエローの長い髪を揺らしながら美奈子を呼んだ。
 美奈子は望の声のした方に顔を向ける。
「わぁ、綺麗………!!」
 思いがけないほど下に見える、パリの街並みが美しかった。疲れがいっぺんに吹き飛ぶほど、その光景はすばらしいものだった。
「あたしって、やっぱり得してる!」
 恍惚の表情で景色に見入っている美奈子は、やっぱり楽天家だとアルテミスは思った。

 テルトル広場にあるカフェテラスで、美奈子たちは休息を取ることにした。
 サン・ピエール聖堂がよく見えるテーブルを選んで、四人は腰を落ち着けた。サン・ピエール聖堂の向こう側には、純白に煌めくサクレ・クール寺院が見える。
 一度はサクレ・クール寺院まで行った一同だったが、やはり美奈子の疲労が激しいということで、テルトル広場まで移動して休息を取ることにしたのだ。
「だから、あたしはケーブルカーで上がろうって言ったのよ!」
 ぶどうのジュース(あくまでもジュースで、けっしてワインではない)を飲みながら、美奈子はアルテミスに抗議した。階段で上ろうと言ったのは、アルテミスなのだ。
「でも、いい運動になったろう? ダイエットに協力したんじゃないか! 最近、太り気味だったろ?」
 アルテミスは横目で美奈子を見やる。
「確かにそうなんだけどね………て、なんで、あんたがそんなこと知ってるのよ!」
「え!? そりゃあ、見りゃ分かるって!」
 どぎまぎして、アルテミスは答える。何か怪しい。
「見て分かるほど太ってないわよ!! さてわ、あんた、またあたしのお風呂覗いたわね!? ヘルスメーターの目盛りを見たんでしょ!?」
「どきっ!」
 喉から心臓が飛び出るかと思うほど、アルテミスはどきりとした。見たのではない。見えてしまったのだ。ネコの姿の時である。あくまでも偶然だった。しかし、そんな言い訳を美奈子が信じるわけもない。前科があるアルテミスのことは、美奈子は信用していないのだ。
「すけべ!」
 鋭い一言だった。が、言葉ほど美奈子は怒ってはいない。それ以上の失態を見せているために、裸を見られたくらいでは何とも思わない。アルテミスがネコの姿でいるときは、美奈子もついつい彼の存在を忘れてしまうのだ。彼がいる前で、堂々と着替えをしてしまうことはしばしばあった。姿がネコだと言うことで、彼が男性だと言うことをついつい忘れてしまうのである。それだけならまだしも、彼の存在自体忘れていることもある。視界に捉えておきながら、見えていないのである。だから、他人にはとても見せられないような姿を見せてしまうのである。百年の恋いも一瞬で醒めてしまうような醜態を晒す美奈子は、彼女の前世がプリンセスであることを知っているアルテミスにとっては、何とも複雑な心境にさせられる光景でもあった。
 当然の事ながら、アルテミスは美奈子の裸を幾度となく見てしまっている。偶然見てしまっただけのアルテミスだったが、実はいい迷惑なのである。確かに目の保養にはなるが、そのあとで美奈子のエルボーやらソバットやらを食らうのでは割に合わない。できるだけ彼女の目に付くような場所に陣取って、存在をアピールしているアルテミスだったが、彼の努力はなかなか報われなかった。
 美奈子とアルテミスの漫才を聞いていた澪と望が、たまらず吹き出してしまう。
「仲がいいことで………」
 望が茶々を入れる。羨ましそうな視線を送ってくる。
「とんでもない!!」
 美奈子とアルテミスは同時に抗議した。
 と、
「きゃあ!!」
 悲鳴がこだました。
「へ!?」
 あまりに唐突だったので、四人は面食らってしまった。一瞬、それが悲鳴だとは理解できず、四人揃って固まってしまったほどだった。四人は見つめ合って、目をパチクリさせている。
 周囲がにわかに騒がしくなった。
「何だ!?」
 何事かが起こったことをようやく感じ取ったアルテミスが、素早く席を立った。
 周囲の人々が、フランス語で何やら喚いている。アルテミスは、自分で開発したイアリングタイプの翻訳機のスイッチを入れた。
 どうやら、サクレ・クール寺院の方で何かあったらしい。
「行ってみようよ!」
 同じく翻訳機のスイッチを入れて、状況を把握した美奈子が、アルテミスの横に来て並んだ。
「いや、美奈はいい。敵だったらまずい。澪、一緒にきてくれ! 望、美奈を頼む」
 アルテミスは澪を連れて、サクレ・クール寺院の方に走っていってしまった。
「ちょっとぉ! アルテミス! ずるいわよ!!」
 美奈子が口を尖らせ地団駄を踏んだが、アルテミスの耳には届かなかったようだ。

 サクレ・クール寺院前の広場に、人集りができていた。アルテミスと澪は、人垣を掻き分けて前に進む。
「“毛むくじゃら”!」
 澪が小さく叫んだ。
 人集りの中央に、“毛むくじゃら”が一体だけ、ぽつんと立っていた。何をするわけでもなく、ただ茫然と立ちつくしている。
「様子が変だぞ………」
 アルテミスは怪訝顔で“毛むくじゃら”を見つめる。(忘れていると困るので、念のため言っておくが、今のアルテミスは人間の姿に戻っている)
 今までの“毛むくじゃら”は、ただ暴れるだけの存在だった。なのに、暴れるわけでもなく、ただじっとしている“毛むくじゃら”は初めて見た。
「罠か?」
 このところ、自分たちは随分と“毛むくじゃら”と戦っている。もちろん、人間が“毛むくじゃら”にされてしまっていることを知っているので、殺してしまうようなことはしない。
美奈子がセーラーV時代に使用していた、コンパクトの浄化能力───クレッセント・シャワー(クレッセント・ビーム・シャワーではない)を使って、人間の姿に戻してやるのである。
 敵にとっては、美奈子たちは邪魔な存在であるはずである。敵───ブラッディ・クルセイダースも、美奈子たちの存在を知っているに違いない。知っていて、消そうと思っているはずである。なにしろ彼女たちは、十三人衆のひとりザンギーを倒しているのだ。
「近くに敵はいないようですが………」
 アルテミスの心配を察知して、澪は周囲に探りを入れる。ロゼ色の髪を、左手で掻き上げる。
「簡単に見つかるようなところには、いないと思うが………」
 アルテミスも油断はしていない。美奈子が万全の状態でないがために、アルテミスにも少なからず影響が出ているのだ。彼もパワーダウンしている。以前のような激しい戦闘はできない。
「罠なら、はまってみるか………」
 アルテミスは顎に手を当て、考え込むような仕草をした。敵のアジトを探るチャンスかもしれない。
「危険じゃないでしょうか?」
 アルテミスのパワーダウンを知っているから、澪も慎重にならざるを得ない。
「『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という日本の諺を知ってるか? 多少の危険は承知の上だ。………俺が囮になる」
「いえ、アルテミス様。囮ならば、わたしが………」
「いや、キミは駄目だ。キミは他の“毛むくじゃら”が出現してきたら、あいつに化けて別個に潜入してくれ。俺が捕らえられる。俺なら、いざというときにネコの姿になって、敵を欺ける」
 セーラーエロスはその特有の能力として、あらゆるものに変身できる力がある。それを利用しようと言うのだ。それにアルテミスはネコの姿になることができる。彼の言うとおり、いざと言うときはネコの姿に戻ればいいのだ。
「よし、行くぞ!」
 アルテミスは小さく言うと、澪の返事も待たずに、素早く人垣から離れた。いくらなんでも、この人集りの中で変身はできない。
 ふたりは木陰に身を隠した。と、
「その役、あたしがやるわ!」
 突然、木陰から美奈子が出現した。その後ろで、望が申し訳なさそうな顔をしている。
「あたしだって、一応セーラーVには変身できるんだからね! それに、やつらは美人の女の子じゃないとさらわないわよ!」
 腰に手を当て、お得意のポーズでアルテミスを睨むように見る。もちろん、「美人」というところをやけに強調したのは言うまでもない。
「美奈ぁ………」
 アルテミスは頭を抱えた。
 美奈子は変身できない。確かに、セーラーヴィーナスへは。だが、変身ペンを使ってトランスフォームすれば、かつてのようにセーラーVには変身できるのである。彼女の中のパワーは眠ったままなのだが、変身ペンからパワーを与えられれば、セーラーVには変身できるだ。もともとセーラーVは、美奈子がセーラーヴィーナスとして覚醒する前の過程の戦士でしかない。正式なセーラー戦士ではないのだ。だから変身するためにはアイテムがいるし、セーラー戦士ほどの能力もない。
「無茶を言うなよ………」
「危なくなったときのために、あんたたちがいるんでしょ?」
 美奈子はアルテミスに詰め寄る。その鼻息の荒さに、さすがのアルテミスも今度ばかりは折れるしかなかった。言い出したらあとには引かない美奈子の性格は、アルテミスが一番よく知っていた。
「分かったよ。じゃあ、美奈がさらわれてくれ。澪は予定通り頼む」
 アルテミスとしては、しぶしぶ了承するしかなかった。

 純白の聖堂サクレ・クール前のやや傾斜した広場に、棒立ちのままの“毛むくじゃら”がいた。アルテミスたちがこの場に来てから、既に二十分あまりが経過しているにも関わらず、全く変化がなかった。
 周囲の人々も物珍しそうに見ている。新聞やテレビのニュース番組でお馴染みの凶暴なバケモノも、じっとしているとぬいぐるみのようにも見える。小さい女の子が触ろうと近づくが、母親に止められてしまった。今はじっとしているが、いつ暴れ出すか分からないのだ。
 通報を受けた警察が、機動隊を引き連れてやってきた。
 “毛むくじゃら”の周囲を取り囲む。取り囲んで、相手の出方を伺った。野次馬たちはやや離れた位置で、固唾を飲んで見守っている。
 五分たった。“毛むくじゃら”は、一向に動く気配を見せない。出現してから、既に三十分が経過していた。
 美奈子たちが動いた。
 純白の聖堂の屋根に、ミニスカートの戦士が颯爽と登場する。セーラーVだ。
 野次馬から歓声があがる。セーラーVの活躍は、パリの人々の間でも有名だった。
 “毛むくじゃら”が、サクレ・クール寺院の屋根の上に立つセーラーVを、ゆっくりとした動作で見上げた。見上げると同時だった。
 バーン!!
 風船が破裂するような軽快な音が響いたかと思うと、上を見上げたままの状態で、“毛むくじゃら”が爆発四散した。
 血と肉片が周囲に飛び散る。
「なっ!」
 セーラーVは絶句した。まさか、このような展開になるとは思ってもみなかった。
 野次馬の間に悲鳴が走り、卒倒する者も出た。機動隊は浮き足立った。
 “毛むくじゃら”の破裂が合図だったかのように、一斉に他の“毛むくじゃら”が出現した。今までどこに隠れていたのかと思えるほどの大群だった。
 既にセーラーエロスに変身していた澪は、素早く“毛むくじゃら”に化け、大群に紛れ込んだ。
 “毛むくじゃら”の大群は、パニックになっている人々に情け容赦なく襲いかかった。慌てふためく機動隊も、各個に迎撃を始めた。だが、浮き足だった部隊の態勢を整うほどには至っていない。
「出てきなさい! そこら辺に隠れているんでしょう!?」
 サクレ・クール寺院の屋根の上で、この混乱を見ていたセーラーVが、声を限りに叫んだ。“毛むくじゃら”がこれほど大量に出現したということは、近くにそれを操っている者がいるということだ。
「あなたの後ろにいますよ。お嬢さん(マドモアゼル)………」
 すぐ背後で声がした。慌てて振り向いた。
 神々しいと言う表現がひったりの白銀の鎧を纏った騎士が、そこにいた。胸には血の色の十字架の紋章が記されている。深紅のマントを風になびかせていた。
 銀色の長い髪にゴールドの瞳。りりしく引き締まった顔。すらりと伸びた長い足。美青年である。セーラーVが、一瞬戦いを忘れて見とれてしまうほどの美形だった。
「素敵な後ろ姿だった。できれば、その赤いマスクを外してもらえないだろうか? お嬢さんの素顔が見たい」
「お望みとあらば………」
 セーラーVは自らの意志に反して、トレードマークのひとつである真っ赤なアイマスクを外した。
「わたしたちの邪魔をしている方が、あなたのような美しい方だったとは、思ってもいませんでした………」
 騎士は丁寧に言った。
「光栄だわ。あたしはセーラーヴィーナスよ。愛と美の女神だから、美しいのは当然なんだけどね………」
 皮肉たっぷりに、セーラーVは答えた。
 騎士は普通に立っているだけに見えるのだが、隙が全くなかった。セーラーVのままで戦ったとしても勝てないという直感が、彼女の心の中に走った。もとより、戦うつもりはない。捕らえられる作戦だ。
「セーラーヴィーナス? セーラー戦士ですか………。ニホンにもお仲間がいますね。十三人衆のタラントを倒し、先日はレプラカーンも倒されたと聞きます」
「日本でもがんばっているようね」
 美奈子は少しばかり嬉しくなった。日本にいるうさぎたちが同じ敵と戦っていると知ると、妙な連帯感が湧いてくる。頼もしい仲間が、同じ敵と戦っているのかと思うと心強い。
「あなた方は、フランス(こちら)でザンギーを倒した。侮れない相手です。わたしの部下も、随分とお世話になっているようですね」
「お世話した覚えはないけど………」
 言いながら、セーラーVは僅かに後退していた。意識下で怯え、無意識のうちに後ずさりしてしまったのだ。その自分に気付き、セーラーVは苦笑する。
 ちらりと下を見た。
 “毛むくじゃら”と乱戦を繰り広げている、アルテミスとヒメロスが見える。エロスの姿はない。既に“毛むくじゃら”の中に潜り込んでいるようだ。
「いい加減、名乗ったら。あたしはちゃんと名乗ったわよ」
「これは失礼………」
 騎士は小さく苦笑した。
「わたしはブラッディ・クルセイダース 十三人衆がひとりにして、ヨーロッパ支部総司令ジェラール」
 淡々とした口調で、騎士は名乗った。
「随分とお偉い方が出てきたのね………」
「あなた方は、それほどの相手と考えている」
「人の命を何とも思っていないようなやつが、そんな丁寧な言葉を使わないで欲しいわね。虫ずが走るわ」
 “毛むくじゃら”を爆発させたことに対し、セーラーVは怒りを露にしていた。何もあそこまでする必要はない。“毛むくじゃら”は人が姿を変えたものである。ひとりの人間の命が失われたことになる。
お嬢さん(マドモアゼル)を誘い出すためです。それに、あれは作り物です。お嬢さん(マドモアゼル)が考えているような、人間が姿を変えたものではない」
 怒りに頬を紅潮させているセーラーVに対し、ジェラールは不自然なまでに落ち着いていた。それがかえってセーラーVの怒りを増長させた。ジェラールが言っていることが、全て本当だとは思えなかった。
「そう………!」
 同時にセーラーVは上空に舞い上がった。コンパクトから、クレッセント・ビームを放つ。もちろん、避けられることは計算済みだ。
 白銀の騎士ジェラールは、微動だにしない。僅かに顔を上げ、セーラーVの姿を瞳に捕らえたまま、ガードすらしなかった。
 直撃だった。ビームが弾ける。白銀の鎧に当たり、光の粒子となって四散した。
「乱暴ですよ、お嬢さん(マドモアゼル)。聖堂を傷つけるようなことをしてはいけませんね………」
 ジェラールは、自分がさも盾となって、聖堂が傷つくのを守ってやったと言いたげだった。
「クレッセント・ビームの直撃を………!?」
 セーラーVは色をなした。確かに、セーラーヴィーナスのクレッセント・ビームに比べれば、コンパクトから放たれるビームは威力が低い。しかし、それでも充分に人間を殺傷する威力はあるのだ。
「あの鎧の守備力なの!?」
「さて、ご同行願いましょうか………」
 驚愕するセーラーVの真後ろで、低い声がした。聖堂の屋根の上には、ジェラールの姿はない。瞬きをひとつする間に、セーラーVの背後に移動していたのだ。
 振り向いた。同時に、下腹部に激痛が走り、意識が遠くなっていった。

セーラーV(みな)!!」
 広場で“毛むくじゃら”を相手にしていたアルテミスは、上空のセーラーVが白銀の騎士の手に落ちた光景を見ていた。いくら作戦とはいえ、このままみすみす、さらわせるわけにはいかない。全力で抵抗してみせなければならない。
 黄金の剣を手に取ると、アルテミスは上空にジャンプした。
 気を失ったセーラーVを他の騎士に任せると、ジェラールも剣を抜いた。
「セーラー戦士の中にも、騎士がいるのか………」
 アルテミスの剣を自らの剣で受け止めると、ジェラールは言った。
「生憎と、わたしはキミと遊んでいる暇はないのだ。これ以上騒ぎを起こしたくないし、聖堂を傷つけるわけにもいかない。退散させてもらうよ」
 ジェラールは僅かに後方に退くと、間合いを計った。
「ふん!」
 剣を振り下ろした。
「ぐっ!」
 血飛沫が舞った。ガードした黄金の剣は砕かれ、アルテミスの左の肩口がパックリと割れた。もんどり打って、アルテミスは落下する。
「ちっ! 急所を外されたか………。わたしの攻撃を僅かでも躱すとは………」
 ジェラールは舌打ちした。
「引き上げるぞ!」
 部下たちに命じた。
 引き際は早かった。あっという間の出来事だった。気が付いた時には、彼らの姿はどこにもなかった。当然、“毛むくじゃら”の姿もない。
 血塗れになって広場に倒れているアルテミスに、青ざめた表情のヒメロスが駆け寄った。

 薄暗い、地下室のような部屋に、美奈子はいた。
 石造りのその部屋は、ひんやりと冷たい空気が流れていて、天井からは時折水滴が落ちてきていた。広さは六畳の部屋くらいだろうか。さほど広くはない。窓はなく、天井から古ぼけた蛍光灯が釣り下げられていた。
 蛍光灯は弱々しい光を放ち、時折チカチカと点滅する。寿命が尽きようとしているのだ。
 重々しい音とともに鉄製の扉が開き、漆黒の鎧を身につけた騎士がひとり、部屋の中にゆっくりとした足取りで入ってきた。背後には数人の下級戦士を引き連れている。
「今まで、よくも我らの邪魔をしてくれたな………」
 低く、響くような声で騎士は言った。
 美奈子は後ずさりをする。
「あたしをどうしようというの?」
 怯えてはいるが、毅然とした態度で美奈子は口を開いた。
「敵の捕虜となった女性の扱われ方くらい、知っているだろう?」
 騎士はすうっと目を細めた。腰から剣を引き抜いた。
「ちょっ! ちょっと、待ってよ! まさか!?」
「そのまさかだよ。テレビ番組とは違うんだ。敵の捕虜となった女性が何もされないのは、子供向け番組だからだよ。考えが甘かったな」
 騎士の瞳が、残忍に輝いた。騎士の背後の下級戦士が、ニタニタと卑猥な笑いを浮かべている。
 シュッ!
 剣は空を切った。
「あっ!」
 美奈子の服が裂かれる。
「じっくりと可愛がってやろう………」
 騎士はじりじりと美奈子に詰め寄った。
「来ないで!」
 美奈子は騎士に平手打ちを浴びせようとするが、その腕は振り下ろされることはなかった。騎士によって、むんずと掴まれてしまったのだ。
「大人しくしろ!」
 瞳を残忍に光らせて、騎士は美奈子を床に押し倒す。
「いやぁ! やめてぇ!!」
 美奈子は必死に叫んだ。だが、騎士はお構いなしに、美奈子の服を乱暴に剥ぎ取ってゆく。
「アルテミス! 助けて!!」
 美奈子の声が、暗い地下室に響いた。美奈子の声はアルテミスに届くはずもない。
「エロス! エロス!? どこにいるの………!?」
 変装して潜入しているエロスを呼んでみた。この場は彼女に縋る他はない。
「残念だが、キミのお仲間は既に捕らえている。別室で“お楽しみ”の最中だよ」
「………!?」
 必死に抵抗を試みていた美奈子の動きが止まった。最後の望すら絶たれてしまったのだ。
「じっくり、可愛がってあげるよ………」
 美奈子にのし掛かっていた騎士が、抵抗する気力も失せてしまった美奈子に、覆い被さっていった。

「やめろぉ!!」
 絶叫とともに、アルテミスは身を起こした。起こすと同時に、左肩に激痛が走った。左肩を押さえ、苦しげに呻く。
「アルテミス様!」
 耳元で声が聞こえ、アルテミスは脂汗の浮かんだ顔を上げた。
「ヒメロス………。いや、望………か………」
 心配げに覗き込む、望の顔があった。
 どうやらベッドに寝かされていたらしい。傷の手当もされている。真新しい白い包帯が、左肩から胸にかけて巻かれていた。
 殺風景な部屋だった。消毒薬の臭いが、鼻を突いた。
 暖かい日差しが窓から差し込んでいて、僅かに開けられた窓から心地よい風が入ってくる。窓際の棚にある花瓶には、美しい花が生けられていた。望が飾ったものだろう。花の名前までは、アルテミスは知らなかった。
「ここは病院です」
 アルテミスが尋ねる前に、望は彼の疑問に答えていた。
「その傷は、寺院での混乱で“毛むくじゃら”に負わされたことになっています。医師や看護婦さんに聞かれたら、そう答えておいて下さい」
 部屋はひとり部屋だった。望が配慮したのだと言う。もちろん、大部屋よりは何かと都合がいい。大部屋では事件の詳しい話はできない。
「………夢か………」
 美奈子が乱暴される様子が、自分が見ていた夢であったことを知り、アルテミスは安堵の息を付いた。
「あれから、何日たった?」
「二日です」
「美奈の両親には………?」
「あたしたちの家に遊びに来ていることになっています。あたしは美奈の声真似ができますから、美奈のふりをして電話をしておきました」
「そうか………」
 アルテミスは呟くように言うと、体をベットに倒した。大きく息を吐く。
「まだ痛みますか?」
 ヒメロスはアルテミスの体を気遣った。並の人間なら、ショック死しかねない傷だったのだ。剣士として鍛錬されたアルテミスだからこそ、命を落とさなかったにすぎない。本来なら、絶対安静のはずだった。彼の驚異的な回復力に、医師団が目を見張ったものだが、アルテミスは当然その事実は知らない。
「今は戦える状態ではないな。………だが、そんなことも言ってられないだろう。美奈を救い出さなければならない。………澪から連絡は?」
「一度だけ。美奈は無事でいるとだけ、エロスは報告してきました」
「こちらから連絡はできないのか?」
「危険ですね。下手に連絡をして、澪の変装がばれてしまっては、元も子もありません。澪のことです。既に“毛むくじゃら”から、別の人物に変身しているかもしれません。大丈夫、彼女は上手くやります」
「そうだな………」
 アルテミスは深く息を吸い込んだ。傷が痛む。とても動けるような状態ではなかった。
「あれほどの相手がいるとは、計算違いだった。まさか深手を負わされるとは思ってもいなかった」
 悔しげに呻いた。アルテミスとて、並の剣士ではない。マスタークラスの剣士なのだ。そのアルテミスにこれほどの深手を負わせるとは、相手もまた並以上の騎士なのであろう。アルテミスの「油断」がこんな結果を招いたのだが、本気で戦ったとしても力は互角かもしれなかった。
「あの騎士の腕は、かなりのものだと思います」
 望のその言葉の裏には、今のアルテミスではあの白銀の騎士には勝てないと、暗に告げているものがあった。
 それは傷を負わされたアルテミスの方が、一番よく分かっていた。殺されなかっただけ、まだ自分の方にツキがあったと考える他はない。
 それに戦いたくても、アルテミスにはもう剣がない。王家の側近の証であった黄金の剣は、白銀の騎士の攻撃によって粉砕されてしまった。
「マゼラン・キャッスルに援軍を依頼しました。アルテミス様は、傷を治すことだけお考えください」
「キャッスルに?」
 アルテミスは怪訝そうな表情をする。できれば、マゼラン・キャッスルは巻き込みたくはなかったのだ。
「余計なこととは思いましたが、今のわたしたちでは美奈を救出することさえできません。助けは必要だと判断しました」
「四剣士たちが来るのか?」
「分かりません。メンバーはアクタイオン様にお任せしてあります」
「そうか………。やつは元気なのか?」
 そう言えば、現在のマゼラン・キャッスルがどういう状態になっているのか、アルテミスは知らなかった。
「アクタイオン様は、ミネルバ様の側近として活躍しておられます。今のキャッスルには、必要な方です」
「………そうか。でも、やつがいれば、キャッスルは安泰だな」
「はい。そう思います」
 望が頷くのと同時に、ドアがノックされた。
「噂をすれば、ですね」
 望は訪問者を部屋に招くべく、自らドアを開けた。マゼラン・キャッスルからの援軍が到着したのだと思った。
「あなたは?」
 この突然の訪問者は、ふたりの予想に反して、意外な人物であった。