蠢く者たち
荘厳な祭壇の前で、男がひとり、祈りを捧げていた。男の服装は、司祭のそれである。しかし、身に着けている法衣は、神聖な白い法衣ではなく、不気味な輝きを持つ漆黒の法衣だった。その法衣の胸から腹にかけての部分に、血のように赤い、異形の十字架が印されている。
漆黒の法衣も、よく見ると細かい紋様のようなものが、一面に刺繍で描かれていた。
男が祈りを捧げている祭壇の十字架も、よく見れば不気味であった。十字架に張り付けにされている人物はイエス・キリストではなく、醜悪な顔を持つなんとも形容しがたい異形の生物だった。強いて例えるならば、悪魔の姿とでも言うべきであろうか。
カッと見開いている目は、まるで生きているように生々しく、驚きとも怒りとも取れた。耳まで裂けた口からは、鋭い牙が伸びている。口の中に窺える艶かしい舌は、今にも動いて、しっとりと濡れたように見えるその唇を、べろりと舐め回しそうである。魚のような鱗を持つ全身。手足の爪は、鋭く伸びており、背中には蝙蝠を思わせる羽根が、三対生えている。
その悪魔のような生物は、イエス・キリストのように、十字架に張り付けにされているのではなく、十字架を抱き抱えるようにしていた。背中の六枚の羽根が大きく開いているために、まるで、十字架を抱えて飛び立とうとしているようにも見える。
とても崇拝する対象とは思えない像に、漆黒の法衣を身に着けた司祭の姿をした男が、なにやら一心に祈りを捧げていた。
「大司教様………」
背後で声がした。若い男の声だ。
男の声は、低く礼拝堂に響いた。
大司教と呼ばれた男は祈りを中断し、重々しく立ち上がると、ゆっくりとした動作で、体を巡らした。
顎に、見事なまでの長い髭を蓄えている。顔に刻み込まれている皺の数が、この大司教と呼ばれる男の年輪を感じさせる。瞳だけは衰えることを知らないのか、鋭いまでの光を宿していた。
「イズラエルか………。何用じゃ………」
低い、響きのある声だった。とても、高齢者とは思えぬ、はっきりとした口調である。祈りを中断されたことへの憤りが、言葉から感じ取れた。
「はっ! 大司教様………。大司教様に、申し上げることがございまして、参りました」
イズラエルと呼ばれた若い男は跪き、頭を垂れ、僅かに恐縮してみせた。大司教と呼ばれた男の声に、自分に対する憤りを感じたからだ。
イズラエルは、一言で言ってしまえばハンサムだった。やや彫りの深い顔。筋の通った鼻筋。そして鋭い眼光。若いが気位は高そうな印象を受ける。
「申してみよ………」
やけにゆっくりとした口調で、大司教は言った。
「はっ!」
イズラエルは、よほど言い辛いことを報告に来たのか、かなり緊張しているように見えた。
「………タラントが破れました………」
「なに!?」
大司教の両眼が、驚きとも怒りともとれる風に、大きく見開かれた。
「ザンギーに続き、タラントまで破れたと………!?」
「はっ………」
「う〜む」
大司教は、低いうなり声を発した。
「………ザンギーは力押ししか知らぬ、愚かな男であったが、タラントが破れたとは信じがたい。先に報告があった者に破れたか?」
「はっ………。しかも、仲間がおりました。その仲間に、タラントは破れたのです」
イズラエルは頭を上げ、真っ直ぐに大司教の顔を見る。
「十三人衆ともあろう者が………」
大司教はスローモーションのフィルムのように、ゆっくりとかぶりを振った。深く息を吐いた。
「………十三人衆に含まれてはいましたが、ザンギーもタラントも、十三人衆の名にそぐわない無能な者たちでした。破れて当然でしょう………。大司教様は、なぜあのような者たちを十三人衆に加えられたのですか? 大司教様の御目も、曇られましたか………?」
礼拝堂の隅の方で、女性の声が響いた。顔の右半分を、黄金の仮面で隠していた。片方だけの素顔に、美しい水晶のような瞳を輝かせ、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
「ぬ………。セレスか………」
大司教は、苦虫をかみ殺したような表情になる。
「他にも無能な者はおります。何を考えているのか、皆目分からぬ者もおります。あのような者たちを信頼しているなぞ、大司教様も、やはりお歳には勝てませぬか?」
「口が過ぎますよ、セレス! 新参者のお前に、なにが分かるというのです?」
大司教の左手の方向から、別の女性の声が響いた。先程のセレスという女性の声とは、質の異なる声だ。セレスの声はまだ若く、どちらかと言えば、少女の響きを持っている。しかし、今響いた声は違う。威厳の隠った神々しいまでの声質だ。神秘的な響きがある。
大司教は声の主を確かめずに、その場で畏まった。
イズラエルも、低く頭を垂れる。
「マ、マザー・テレサ………」
セレスも畏まり、その場で跪いて頭を垂れた。
ステンドグラスから入る光の届かぬ場所で、マザー・テレサと呼ばれた女性は立ち止まった。薄暗い闇に包まれてはいたが、その目だけは異様に輝いていた。その目が、ギロリとイズラエルを見据える。
「イズラエル。ふたりを失ったのは、十三人衆を束ねるお前の責任です。早急に、邪魔者の処置をなさい………」
「は、はい………。申し訳ありません、母上………」
イズラエルは俯いたまま、顔を上げることができない。
「あのような者たちの為に、我らが計画が遅れるようなことがあってはなりません。邪魔者は速やかに処置し、我らの行動に支障が出ぬようにするのです。いいですね、イズラエル、セレス………」
マザー・テレサの言葉は、有無を言わさぬ迫力があった。
「イズラエルよ………」
次いで、大司教が言葉を続けた。
「指輪の探索の方はどうなっておるのか?」
大司教からしてみれば、仲間を倒した邪魔者の存在より、気になることがあるようだった。それが、「指輪」だった。
「既に四つの指輪を揃えております。残すところ、あと三つかと」
「そうか………」
大司教は満足そうに頷いた。
「聖地の発見には、七つの指輪が不可欠。早急に揃えよ」
大司教の言葉を、今度はマザー・テレサが引き継いだ。
「指輪を早急に探し出し、更には我らに仇なす者どもを早急に始末せよ」
「はっ………! マザー・テレサのお言葉のままに………」
イズラエルとセレスは、声を揃えて答えた。
早々に礼拝堂をあとにしたイズラエルとセレスは、石造りの暗い通路を歩いていた。ひやりとして冷たい空気が、通路内を漂うように流れてゆく。光は、均等に配置されている蝋燭だけが頼りだった。やや広めの通路に見合った数の蝋燭ではなく、申し訳程度の光が、ここが辛うじて通路であるということを、ぼんやりと映し出していた。
「………セレス。先のお前の言葉は言い過ぎであったが、確かにザンギーもタラントも、十三人衆とは名ばかりで、全く役に立たぬ者たちであった………」
歩きながら、イズラエルは言う。
セレスは無言で耳を傾けていた。通路が薄暗いために、お互いの表情はよく分からないが、イズラエルは神妙な顔であろうということは分かる。
「他にも有能な者たちはおりましょう。わたくしを加えたように、欠員の補充が必要ならば、お加えになったら宜しいでしょう。………それより、指輪の在処の目星は付いているのですか?」
「今、テンプル・ナイツの全力をあげて探索に当たっている。情報では、日本に二つの指輪がある」
「残るひとつは?」
「まだ分からん」
イズラエルは足を止めた。
「セレス、お前はどう思うか? あの邪魔者ども………」
仲間を倒した相手のことを、セレスがどう考えているのか、イズラエルは知りたくなったのだ。だから、立ち止まってわざわざ質問したのだ。
「倒すとなれば、一筋縄ではいかぬでしょう………。ザンギーもタラントも、十三人衆を名乗るにはいささか実力不足ではありましたが、戦士としての能力は低くはありません。いとも容易く敗れ去ったと言うのなら、我々も相手を警戒すべきでしょう。自らの能力を過信しすぎては、倒されたふたりと同じ運命を辿ることになりかねません。それより、もしやつらを捕らえることができれば、極上の聖体となりましょう………」
セレスは正面を見据えたまま答えた。イズラエルの方には、ちらりとも視線を向けない。イズラエルも足を止めただけで、セレスの方に振り返るようなことはしなかった。立ち止まってみせたのは、会話の中にアクセントを付けたかったからにすぎない。
「なるほど、聖体か………」
イズラエルは再び歩を進めた。僅かに苦笑いをする。自分が考えてもいないことを、部下から言われたことに対してのものだった。
セレスは女性としては背の高い方ではあるが、やはり男性のイズラエルと比べると小柄に見える。当然歩幅も違うはずなのだが、やや足早に歩くイズラエルの横に、ぴったりと並んで歩を運んでいた。
「一度手合わせをしてみれば、あの者たちの力も分かりましょう………」
急ぎ足になっているはずなのにも関わらず、セレスの呼吸は乱れていなかった。
「そうだな………。ならば、わたしが出てみよう」
「ご自身がですか?」
「そうだ。………おかしいか?」
「いえ………」
セレスはいささか驚いたようだった。まさか、自分で行くと言い出すとは思っていなかったようだ。イズラエルは、戦場の最後尾でふんぞり返っているタイプだと思っていたのだ。
「あの者たちの力量を計るには、わたしが出る方が一番よいだろう。部下にやらせてもよいが、悪戯に時間を浪費するだけにもなりかねん………。セレス、すまぬが力を貸してくれ………」
「お言い付けとあらば………」
そう会話をする間も、セレスは依然として正面を見たままである。イズラエルには、顔を向けない。対照的に、イズラエルはちらりちらりとセレスの見えない横顔に目を向けている。
セレスはこういったイズラエルの挙動から、この男の自信のなさが感じ取れてしまい、うんざりしてしまうのだ。だから、正面を見たままなのだ。
「聖体の収集は今まで通り、スプリガンに任せるおつもりですか?」
セレスは話題を変えた。少しばかり気になっていることを質問してみた。
「そのつもりだ。………不服か?」
「あの男、何を考えているのか分かりません。あの男の配下の者たちも、油断できぬ相手です。大事な聖体を傷物にするかもしれません」
「案ずるな。あの男も馬鹿ではない。聖体を傷物にすれば、大司教のお怒りをかうことは分かっている。あのように野望を持っている男は、そうやすやすと敵を増やすような真似はしないだろう………」
「あの男。指輪も探しているようです。配下の者を、世界各地に飛ばしております」
「指輪を揃え、純粋な聖体を手に入れれば、組織を自由に動かすこともできる」
イズラエルは足を止めると微苦笑する。
「イズラエル様は、あの男の考えをご存じで………?」
セレスも足を止めた。そこで初めて、彼女はイズラエルに顔を向けた。
「自分のまわりを、あれだけの部下たちで固めた男だ。気付かんでどうする? わたしはお前が思っているほど、無能な男ではないつもりだ」
セレスの意外そうな表情に微苦笑すると、イズラエルは再び歩み始めた。合わせてセレスも足を前に繰り出す。
「そのように思ったことなぞ、一度もありません………」
「嘘をつけ、ちゃんと顔に書いてある」
声を出して、イズラエルは笑った。
「スプリガンを、どうされるおつもりですか?」
少し遅れて歩き出したセレスが、イズラエルの背中に話し掛ける。
「好きにさせておくさ。今はまだな………」
イズラエルは小さな笑みを浮かべていた。その表情からは、緻密な計算が伺い知れた。セレスの位置からでは、イズラエルの細かい表情は読みとれなかったが、笑みを浮かべているだろうことは気配で分かった。
セレスはこのとき初めて、この頼りない指揮官が、実は侮れない相手であることを初めて知った。
(この男も油断できない相手だ………)
セレスは心の中で、そう呟いていた。
イズラエルとセレスが立ち去った後、礼拝堂には再び静寂が戻っていた。不気味な像を仰ぎ見ている大司教に、マザー・テレサは背を向ける。
「指輪を彼らに集めさせて大丈夫でしょうか? あの者たちも馬鹿ではない。指輪を揃えることができれば、何が起こるかなど、とうに知っております」
背中越しに、大司教に語りかけた。
「いらぬ心配だ。指輪を集めただけでは何も起こらん。指輪は触媒にしかすぎない」
悪魔の十字架を仰ぎ見たまま、大司教は答えた。
「そなたの『誘惑の指輪』と、儂の『呪縛の指輪』。そして、この祭壇にある『幻想』、『守護の指輪』。今我らが手にしている指輪は四つ」
「あとは、『真実』『生命』『運命』の三つを揃えれば、聖地への道標が出現するわけですね」
「うむ」
大司教は頷く。
「早く聖地へ向かいたいものです………」
マザー・テレサのその声は、次第に遠ざかっていく。
「そなたに聖地が見れるかな………?」
その大司教の意味ありげな呟きは、マザー・テレサの耳には届かなかった。