真夜中の逃亡
霧雨が降っていた。
時刻は午前零時を少し回った頃だろうか。
霧雨のせいで、気温が低くなっているためなのだろう。六月も後半だというのに、少し肌寒かった。風はなく、靄のように辺りが煙っているために、視界がひどく悪い。
深夜ということも手伝ってか、人の姿を全く見かけない。いや、濃い霧のために霞んで見えないだけなのかもしれなかった。
不気味なくらい、静かな夜だった。生きるものの気配が、全くと言っていいほど伝わってこない。本当に、ここは東京なのかと疑いたくなるほど静謐としていた。いや、実際、ここは本当に東京なのだろうか? これではまるで、ゴーストタウンではないか。
ひっそりと静まり返り、生き物の気配を全く感じさせない闇の世界───
その静けさを破るように、甲高い靴音が響く。硬質なアスファルトと、堅い靴底が奏でるリズミカルな響きが、次第に近付いてくるのが感じられる。不気味な静けさの中にあって、それは唯一生きるものの気配であった。
タン、タン、タン、タン、タン………。
規則的に響いているその靴音は、音の間隔からして、走っているように思えた。規則的な中に、慌ただしさを感じる足音である。ひどく慌てて走っている様子が伺い知れる。深夜のジョギングなどという、一風変わった趣向でもないようだ。
昼間に一時的に強く雨が降ったということもあり、地面にはところどころ水たまりができていた。
バシャッ。
足が水たまりに填り、勢いよく泥水が跳ねた。スカートが揺れた。女性である。
清潔そうな白いソックスが、泥水を浴びて汚れた。泥水は白いソックスに、くすんだ染みを作った。
短めのスカートからのぞいている健康そうな太股にも、同じように泥水が跳ねた。
だが、踏み入れてしまった当人は、そんなことは気にも止めない。泥跳ねで汚れることなど、全く気にしていない様子だった。いや、気付いていないのだ。それ程までに、走ることに懸命だった。
ただひたすらに、走り続ける。
足音の主の女性は、路地から通りへと飛び出した。二車線のいまどき珍しくもないごく普通の道路だった。これ見よがしに聳える電柱と薄汚れたガードレールが、道路の幅を見た目より狭く感じさせている。
ろくな街灯もない。
二車線の道路のわりには、非常に暗かった。
申し訳程度の歩道は、人がすれ違うのにも苦労しそうな幅しかない。人通りが少ないために、未だ拡張されることがない歩道に、当然のように人の姿は見えない。
足音の主は、そこで初めて足を止めて、身を屈め両手を膝に付けると、大きく肩で息をする。が、すぐに顔を上げた。呼吸を整える間もなかった。弾かれたように背後を振り返ったが、そこに何もないとを確認すると、安心したように深い息を吐いた。
前方に耳を傾けた。濡れた路面を走る、タイヤの音が聞こえたからだ。音は次第に大きくなる。
こちらに向かってきているようだ。
ヘッドライトの明かりが見えてきた。屋根の上に、ぼんやりと白いランプが見える。タクシーだ。
お願い、乗せて!!
大きなゼスチャーで手をあげた。しかし、タクシーは彼女の願いも虚しく、無情にも通り過ぎていってしまった。タクシーの運転手は、ちらりとも自分を見てくれない。不機嫌そうに前方を見つめたまま、小さく欠伸をしている。中年の、厳つい顔の気難しそうな親父であった。
通り過ぎる際、タクシーのヘッドライトが、手をあげた人物を一瞬だけ照らし出した。女子学生だった。都内でも指折りの、ミッション系の女子校の制服だ。名門中の名門、由緒正しきお嬢様学校である。こんな真夜中に制服のまま外出しているなど、普通ならば考えられない。世間体を気にする親元が、そんなことを許すとは考えにくいことであるし、本人も外出する気など起きないだろう。
彼女は恨めしそうな瞳で、タクシーの赤いテールランプを見送った。
後部座席に人が座っているのが、ウインドゥ越しに確認できた。大学生風の男性と、中学生くらいの少女。真夜中にしては、妙な組み合わせのカップルだった。兄妹だろうか。恋人同士にしては、不釣り合いだった。
タクシーが止まってくれなかったのは、お客を乗せていたからなのだ。
後部座席の男性が、僅かに振り向いたように見えた。その大学生風の男性の名が、「地場衛」という名だということは、タクシーに見捨てられた彼女には、知る由もないことだった。当然彼と一緒にいた、中学生くらいの女の子の顔も名前も知るはずがない。
ピクリ………。
背後で何者かの気配を感じた彼女は、その表情を引きつらせた。再び、脱兎のごとく走り出す。
足は泥跳ねのせいで、ひどく汚れていた。清潔そうな白いソックスも、ドロドロに汚れてしまっている。スカートが短いために、太股も泥だらけになっていた。だが、彼女はそんなことは一向に気にも止めない。気にしている余裕すらない。
表情を引き釣らせて走るのみである。
僅かにソバージュのかかった長い髪が、雨でしっとりと濡れている。セーラー服もかなり水を含んでいることから、長時間この霧雨の中を走っていたことになる。
彼女はその「気配」から逃れようと、懸命に走る。
すれ違う人も、行き過ぎる車も、全くなかった。
どのくらい走っただろうか。突然、視界が開けてきた。潮の香りが鼻を突く。港に出てしまったのだと感じた。倉庫がいたるところにある。そして前方は一面の闇。
彼女は闇雲に走っていたがために、自分が港の方角に向かっていることに気づかなかったのだ。
潮の香りが鼻腔をくすぐる。波の音が耳を打った。
彼女はそこで初めて、自分が走っていた方向が間違いであったことに気づいた。しかし、今となってはもう遅すぎた。眼前に見えるものは、何もない。一面が暗い海である。海にはうっすらと、靄がかかっている。
彼女は足を止めた。もう、逃げる場所がない。
「気配」が間近に迫ってきていた。殺気に満ちた猛獣のそれに近い気配だ。
悲鳴をあげた。
「気配」を放つものが、闇の中で蠢いた。闇にとけ込んでいて、その姿は捉えることはできないが、確実に近づいてきている。
彼女は、その「気配」を放つものの正体を知っていた。知っているからこそ、自分の生命の危険を感じて、泣き叫んでいたのだ。
「助けてぇ!!」
だれもいるはずのない倉庫街に、彼女の虚しい叫びだけが響く。逃げることもできず、その場に立ち尽くしたまま、泣き叫んだ。だれもいないと分かってはいても、叫ばずにはいられなかった。
気配がじりじりと接近してくるのが分かる。
しかし、救世主は突然現れた。
何の前触れもなく、彼女の前に現れた。
気配を放つものが、彼女の眼前まで迫ってきたとき、疾風のように現れたふたつの影が、彼女と気配を放つものとの間に割って入った。
影のひとつは彼女を抱えて大きくジャンプし、もうひとつの影は、その場に残って気配を放つものと対峙した。
彼女を抱えた方の影は、男だった。右腕だけで軽々と彼女を抱えたまま、空中で身を翻すと、ふわりと地面に着地した。
着地のショックがまるでなかった。自分が、夢の中にいるような気にさえさせられる。
「もう、心配ない」
男は優しい笑みを、彼女に向ける。とても安心できる笑顔だ。男が笑いかけてくれていると感じることができたのは、男の口元を先に見たからだった。顔全体を見てしまっていたら、果たして笑いかけていると判断できたかは疑問が残る。いや、むしろ次なる恐怖が彼女を襲っていたことだろう。男は目から鼻にかけての部分を純白の仮面で覆っていたのである。その白磁の仮面は、まるで「オペラ座の怪人」そのもののように思えた。
「君の名前は?」
オペラ座の怪人のマスクで顔を覆っている男が、続けて訊いてきた。
「み、美童陽子」
反射的に、彼女は自分の名を名乗った。マスクの奥に、男の優しい瞳が見える。彼女は未だ、夢見心地だった。奇怪な仮面で顔を覆っている男からは、その不気味な仮面に反して、全く恐怖を感じなかった。
「OK、陽子ちゃん。しばらくここを動くんじゃないよ!」
男は言い、後方を振り返る。黒い影が三体、そこに並んでいた。
男は右手を、自らの顔の前まで移動させると、僅かに力を込めた。音もなく、男の爪が十五センチほど伸びる。SFXさながらの変化である。その爪が「魔爪」と呼ばれていることなど、もちろん彼女の知るところではない。
もっとも、陽子の位置からでは、その爪の変化を見ることはできなかった。そう、男はわざと彼女からは見えない位置で、自らの特殊な能力を使ったのだ。それはもちろん、彼女を怯えさせないためである。
男は大地を蹴って、大きくジャンプする。優に十メートルはジャンプしている。並の人間にはできない芸当だ。
漆黒の闇に、黒いマントが翻る。
「殺しては駄目よ!!」
闇の中から、声が響く。女性の声だ。芯の強そうな響きを持っている。「気配」と対峙していたもうひとつの影が、この声の女性なのだろう。
女性の姿は全く見えない。時折、シュッ、シュッという風を切る音が聞こえ、バシャッという水を弾く音が聞こえてくるだけである。
男は伸ばしていた爪をもとに戻し、音もなく地面に着地した。戦法を変えたのである。
黒い影が動いた。一斉に男に襲いかかる。
勝負は一瞬だった。
すぐ近くで見ていた陽子だったが、何が起こったのか分からない。気づいたときには、三体の黒い塊が地面に倒れていた。
パッ。
男の更に後方で、光が走った。
「………あっちも終わったようだ」
男は陽子に対し、ウインクをしてみせた。………ように感じた。白磁の仮面に遮られて、男の顔の僅かな変化を伺い知ることはできない。気配でウインクをしたように感じたのだ。
男はゆっくりと陽子に歩み寄り、すうっと手を差し伸べた。
「大丈夫だ。キミの追っ手は全て倒したよ」
男は言った。
「あたしたちが考えていた以上に、状況は悪いわね。これなら、まだロンドンの方がマシだったわ」
闇の中から、女性が姿を現した。ショートに整えられた髪は、ふわりとした印象を与え、長めの前髪は、右の目を完全に隠していた。身長は百六十五センチ前後だろうか。さして、高いという感じではない。自分と大差はないだろうと、陽子は思う。
街灯がなく、深夜の暗がりの中であるがために、その表情までは分からないが、軽い微笑を浮かべているのが、何となくだが雰囲気で読み取ることができた。
セーラー服に似た、コスチュームを身に纏っている。学生用のセーラー服とは、いささかタイプが違う。セーラー服ではあるのだが、全く異質のものの印象を受ける。超ミニのスカートから、すらりとした長い足が伸びていた。無駄な肉付きがない。すっきりとして、健康的な素足である。陽子がもし男であったなら、彼女の素足に引きつけられ、思わず胸躍らせていたことだろう。
陽子は、このセーラー服のようなコスチュームを身に着けた人物を知っていた。写真週刊誌等で、一年ぐらい前までは、よく見かけたものだ。新聞の三面記事で、その活躍を読んだこともあったが、最近は全く見かけなくなっていた。不思議なもので、その活躍がなければ記事を組まれることは少なくなる。約一年も音沙汰がないと、世間からは殆ど忘れられた存在となってしまう。陽子自身、その存在を忘れかけていたほどである。
「セーラー戦士………」
陽子は目を見開いた。しかし、今目の前にいるセーラー戦士の姿をした女性は、陽子の知っている名前のセーラー戦士ではなかった。自分の目の前にいる戦士は、セーラームーンでも、セーラーVでもない。
「そう………。こんな格好をしたやつらを、日本じゃセーラー戦士というのかい?」
ちょっと粗野な口調だったが、不良のそれとはニュアンスが違う。こういう話し方をするのが、彼女の癖なのだろう。
「お前のその格好は、日本じゃ珍しくないらしいな」
男のその言葉は、セーラー戦士の姿をした女性に向けられたものだった。女性は大きく肩を竦める。何か、別のことを期待したからなのだろうが、陽子にはその意味は分からなかった。
「あ、あの………。あなたはセーラー戦士なんですか………?」
思い切って、陽子は訊いてみた。何か違和感を感じるセーラー戦士だったが、その姿をしているならば、セーラー戦士に間違いはないと感じた。
陽子のその質問に対し、セーラー戦士の姿をした女性は、微笑を浮かべたように感じられた。
「さぁ、どうかな………。だけど、あなたがそう思いたいのなら、あたしはセーラー戦士を名乗ってもいいよ。名前は、ないけどね」
セーラー戦士の姿をした女性は言い、次に、自分の右横に移動してきた男に顔を向けた。
「彼女を家に送っていかないと………」
「そうだな………」
男は大股で、陽子の方に歩み寄ってきた。白磁の仮面が、陽子の顔を覗き込む。
「送っていこう………。家は、どこだい? この近くなのかい?」
男はさりげなく、陽子の肩を抱いた。
腕から伝わってくる男の体温が、それまで張りつめていた、陽子の緊張を解いた。ふっと、体の力が抜けた。
「おい!」
男の声が、やけに遠くに聞こえた。
陽子は自分の意識がすうっと白くなっていくのを、まるで他人事のように感じていた。