ある日のみちるさん
何か、柔らかいものを踏んでしまったという感覚が、みちるの全身を駆け巡った。
思えば今日一日、ついてなかった。
寝坊はするわ、変な男にナンパされそうになるわ、お気に入りのウェッジ・ウッドのハンカチを落とすわと、ろくなことがなかった。
極め付けは、些細なことではるかと口喧嘩してしまったことである。喧嘩など、殆どしたことはなかったのだが、本当に今日はどうかしている。
怒って喫茶店を飛び出してから、しばらく六本木をウロウロしていたが、その時に変な男にナンパされた。とにかく不細工な男だった。ずんぐりむっくりとした体型にボサボサの髪、脂ぎった顔に無精髭を生やし、背中にはリュックサックを背負っていた。そのリュックサックからは、何やら細く丸められた紙のような物が数本突き出ていた。実はそれが二日前から秋葉原のゲームショップに並んで手に入れた美少女恋愛シュミレーションゲームの初回特典ポスターで、その男のような恰好をした姿が、俗に「弁慶さん」と呼ばれていることなど、みちるが知る由もない。
一週間は風呂に入っていないのではないかという悪臭を漂わせながら、「お茶でも飲みませんか?」と声を掛けられたのだから、みちるが腹を立てるのも無理もない。足早に交番に駆け込むと、ストーカーに付きまとわれているとお巡りさんに告げ、そそくさとその場を立ち去ってしまった。その後のナンパ男君の運命など、知ったことではなかった。
むしゃくしゃしていたので、気晴らしに有栖川公園に行こうと考えた。美しい自然を愛でていれば、少しは気分が晴れるのではないかと考えたからだ。ナンパ男君に対して多少の罪悪感を感じていたので、六本木から離れたかったという理由もあった。
公園に着いてから、しばらくぶらぶらと歩いた。
しかし、気晴らしに来たはずだったのだが、かえってストレスが溜まる結果になってしまった。
カップルが多かったからである。
そのカップルの中に知っている顔を見つけてしまったことが、みちるを更に不快な気分にさせた。
普段のみちるなら、その微笑ましい光景に、自分も心を踊らせるのだが、今日は生憎とそういう気分ではなかった。なにもかもが、面白くなかった。
みちるはふたりを避けるように、くるりと反転して、別のルートを歩いた。
小さな子供たちが奇声をあげながら、自分の前を通りすぎていった。
みちるには、それすらもうっとおしいものに感じられて、苛立ちを覚えた。
静かなところへ行きたいと、方向転換をした。
それがいけなかった。
何かを踏んでしまったのだ。
柔らかかった。
非常に、柔らかかった。
「ぐにょっ」という形容詞が似合いそうな感覚が、左足から全身に伝わった。
その感覚を感じてから、おぞましい単語が、みちるの頭の中を駆け巡った。
みちるはその場で固まってしまった。
“それ”を踏んでしまったということを、認識したくないがために、動けなくなってしまった。
当然、目を向けてもいない。自分が“それ”を踏んでしまっている光景など、おぞましくて見る気にはなれなかった。
自分の靴のしたから、踏みつぶされた“あれ”がはみ出ているのを、とても見る気にはなれい。
海王みちるとしてのプライドが、それを許さなかったのだ。あってはならないことなのだ。
人生最大の汚点である。
通行人が、じろじろと自分を見ながら通りすぎて行くのが分かる。
女学生が、なにやらひそひそと話しているのが、みちるの耳に届いた。
子供たちが指を差して笑っている。
恥ずかしかった。
果てしない絶望感が、彼女を包んだ。
笑って事を済ましてしまうには、彼女の顔は売れすぎていた。
名バイオリニスト海王みちるを知らない者は、モグリである。彼女はそう自負していた。
すぐに移動してしまえばよかったと思った。
情けなさと悔しさが、みちるの身体を小刻みに震わせていた。
泣き出したかった。
だが、その行為すらも、海王みちるとしてのプライドが邪魔をしていた。公衆の面前で涙を流すということは、とても許される行為ではなかった。自分は可愛い子ブリッコが売り物の、一昔前のアイドルとは違う。自分は海王みちるなのだ。
「あれぇ、みっちょん!? なにしてるの?」
最悪の人物に見つかってしまった。
これで仲間たち全員に、自分の恥が知れ渡ってしまったのも同然だ。彼女に黙っていてもらうということは、この場を旨く誤魔化すことよりも難しい。
「こ、こんにちは、うさぎ。衛さん」
固まったまま、曖昧な笑みを浮かべて、みちるはふたりに挨拶した。
ふたりは、きょとんとしている。
自分が挨拶をしたことが、よっぽど不思議だったのだろうか。
「どうしたの? みっちょん」
うさぎが、みちるの顔を覗き込むようにして訊いてきた。
「え、ええ………。ちょっとね………」
みちるは曖昧に微笑む。
「ふぅ〜ん」
うさぎは不思議そうな顔をして、目線を下に向ける。
(見ちゃダメ!)
みちるは心の中で叫んでいた。だが、心の中で叫んだのでは、うさぎには伝わらない。
うさぎは下を向けていた視線を上に戻すと、目をぱちくりさせた。そして、再び視線を下に落とす。
「………で、ルナはなにをしてるの?」
「え、ええ………。ちょっとね………」
うさぎははしゃがみ込んだ。
衛の視線も下へ向けられている。
「ル、ルナもいるの………?」
みちるは、視線を下には落とさずに尋ねた。
うさぎは立ち上がって、不思議そうな顔をみちるに向けた。
「気が付かなかったの?」
驚いている。
「え、ええちょっと、下を向けない理由があって………」
「首でも、寝違えたのか?」
下の方で、衛の声がする。今度は衛の方がしゃがみ込んでいるようだ。
みちるの視界から外れているので、表情までは分からない。
ふたりとも何故か“あれ”に関しては触れなかった。見えていないのだろうか?
(もしかして、以外と小さくてちょっと見ただけでは分からないのかも………)
みちるは心の中でそう考えた。このまま気付かないで立ち去ってくれれば、少なくとも仲間たちに自分の失態を知られることはない。
「そ、そうなのよ。寝違えちゃって………」
嘘を付くなどとはプライドが許さなかったが、この際仕方がなかった。
「ふ〜ん。そうなんだ。だってさ、ルナ………」
うさぎも再びしゃがみ込んだ。
「そ、そうなのよ………」
みちるは引き吊ったような笑顔をつくった。
「あ、そう………」
半ば、諦めたようなルナの声が聞こえてきた。
なぜなのか、みちるにはその理由は分からない。
「下を向けない理由は分かったからさ、みちるさん。いい加減に、その足を退けてくれないかしら………?」
ルナの声がする。
あ、足を退ける? どういうこと? 足を退けてしまったら、“あれ”を踏んでいることがばれてしまう………。
みちるの心の中で、しばし格闘があった。
決心をして、みちるは視線を足もとに落とした。
うさぎと衛が見えた。
自分の足が見えた。
そして、尻尾をみちるの足に踏まれ、迷惑顔のルナの顔が見えた。
あとがき
プライド高きみちるさんが、もしも道端の「あれ」を踏んでしまったら・・・。と、ふと思い立ち書いてみた短編です。ルナが出てきた時点で、オチが見えてしまうのが、ちょっと難点(笑)