ある日のまもちゃん〜バレンタイン編〜
衛にとっては、ある意味憂鬱な日がやってきた。
聖バレンタインデー。
一年でただ一日、国外逃亡を謀りたくなる日。
チョコは嫌いではない。どちらかと言えば好きな方である。しかし、限度と言うものがある。
まだ昼前だと言うのに、今日は既に二十個を超えている。昨年を上回るペースである。
毎年、五個は必ず貰えることになっている。うさぎとその仲間たちで合計五個。うさぎ以外は義理チョコなのだが、昨年のように全員が本命チョコをくれる可能性も捨てきれない。当然ジョークなのだが、うさぎの機嫌が悪くなる。
「あ、あの地場さん。これ貰ってください!」
憂鬱な気持ちでキャンパスを歩いていると、後輩らしい女の子が、可愛らしい包装を施した小箱を持ってきた。さして大きくはないが、手作りだと分かる。
「ありがとう」
衛は短く礼を言ってそれを受け取った。衛はその性格上、あまり邪険にできるほうではない。サークルで見掛けたことのある女の子だったが、個人的に話したという記憶はない女の子だった。
「あ、ありがとうございます!」
頬を赤らめ一礼すると、女の子はその場から逃げるように駆けだしていった。
「お前さ、そのチョコ、全部食うわけ?」
並んで歩いていた友人の風祭 迅が、羨ましそうな視線を向けてきた。
「ま、まあな」
「糖尿病には気を付けろよ」
風祭は衛の肩に手を置いた。彼も全く貰えないというはずはないのだが、やはり衛は群を抜いているのだろう。
「午後の講義はフケた方がいいんじゃないか? この分だと、帰る頃にはダンボール一箱分くらいになるぞ」
「そうしたいのは山々なんだけど、どうしても抜けられない講義があるんだよ」
衛はがっくりと肩を落とす。風祭の予想通り、帰る頃には本当にダンボール一箱分のチョコレートが堪っていた。
紙袋に詰めるだけ詰めて、衛は取り敢えず大学を出た。持ち帰れない分は、サークルで使っている研究室にある自分用のロッカーにしまってある。
うさぎとは有栖川公園で四時半の待ち合わせだった。腕時計を見ると、まだ三十分の余裕がある。
衛は十番商店街にぶらりと足を向けた。商店街の入り口では、海野がなるちゃんからチョコを貰って号泣していた。
ゲームセンター“クラウン”の前に差し掛かったとき、浅沼と出会った。
「あ、衛センパイ………」
浅沼は虚ろな目をしていた。表情に覇気がない。
「どうしたんだ? そんな顔して………」
なんとなく理由は想像できたが、取り敢えずは聞いてみた。
「浅沼のやつ、貰えると思ってた木野センパイからチョコが貰えなかったんで、落ち込んでるんですよ」
隣にいた浅沼の友人が説明してくれた。名前は知らないが、浅沼と一緒の所を何度か見掛けたことがある。
「そう気を落とすなよ、浅沼。チョコだけが全てじゃないぞ」
「衛センパイ………」
浅沼を元気づける衛。だが、
「そんなにチョコ抱えてたら、ぜんっぜん説得力ないっすよ」
「あ、いや、あはははは!」
流石の衛も、笑って誤魔化すしかない。
「バ、バレンタインなんて、どぅわいっきらいどぅぁぁぁ!!」
泣きながら浅沼は走り去ってしまった。
十番商店街をパティオ十番に向かって歩いていると、美奈子とレイのふたりと出会した。ふたりとも火川神社に向かう途中らしかった。衛の方が足が速いので、追い付いたという恰好だった。
赤い靴を履いた女の子、きみちゃんの像の前で衛がふたりに声を掛けたのだ。
「ああ、まもちゃん。これからうさぎとデートね」
美奈子が興味津々な視線を、衛に向けた。
「あれ? でも、あいつまだ学校にいたけどなぁ」
美奈子は首を傾げる。待ち合わせの時間まで、確かにあと二十分はあるが、うさぎの足では十番高校から有栖川公園までは三十分は掛かる。
「三十分ぐらいは、覚悟しておいた方がいいんじゃない?」
レイが言った。その通りである。いつものことだから、あまり気にしてはいられないが、それにしても毎度毎度よく待たされるものである。
「じぁね、まもちゃん」
火川神社の前で、美奈子とレイは衛に別れを告げた。
「ああ、じゃあ」
衛は階段を上がっていくふたりを途中まで見送る。
「ん? 今年はナシか?」
すっかり忘れていたが、ふたりからチョコを貰っていない。ビターな味付けのレイの手作りチョコをちょっとぴり期待していた衛は、何となくがっかりした気分になる。意味もなく派手な美奈子のチョコも今年は貰えないのかと思うと、少しばかり寂しい。
そう言えば、パーラー“クラウン”の前でまこととも会ったのだが、彼女からもチョコは貰えなかった。まことの手作りチョコは絶品である。口直しと言ってはうさぎには悪いが、まことから貰うチョコは、うさぎの手作りチョコの次に食べることになっていた。
「ま、いいか………」
名残惜しそうにふたりを見送っていた衛だったが、あまり下から見上げているのも世間的にマズイので、早々とその場を立ち去ることにした。
四時二十五分。有栖川宮記念公園に到着した。待ち合わせの噴水の前に目を向ける。やはりうさぎの姿はない。
「本でも借りるか」
本当に三十分は覚悟する必要はあると考え、衛は公園に隣接されている都立中央図書館に入ろうとした。
「おや?」
足を向けると、ちょうど亜美が図書館から出てきたところだった。
「こんにちは、衛さん。図書館に調べものですか?」
亜美がにこやかに挨拶をしてくる。縁のあまり目立たない、シンプルな眼鏡を掛けている。眼鏡を掛けた亜美は、実年齢より二歳ぐらい上に見えてしまう。コンタクトにすればいいと思うのだが、本人はあまり気にしていないようである。
「ちょっと、本を借りようと思ってね」
「そうですか、じゃあ、わたしは急ぎますので………」
亜美は軽く会釈をすると、その場から立ち去っていった。恐らく、塾へ向かうのだろう。
亜美の小さな背中を見送りながら、衛は「チョコくれないのかな」と、ふと考えたりもした。
亜美のチョコも手作りである。まことが際だっているのであまり目立たないが、亜美の料理の腕前もなかなかである。いつもちょっとした工夫をして見せるので、同じ料理でも違って見える。視覚を利用した、亜美ならではの料理である。デザイン的にひと工夫している亜美のチョコが、今年は貰えないのかと思うと、少しばかり残念である。
中央図書館で本を借りると、衛は噴水の前のベンチに腰を下ろした。
四時四十分。
図書館で本を借りていた為に、衛自身も二十分の遅刻だったが、やはりうさぎはまだ来ていなかった。
「!」
不意に違和感を頭上で感じた。見上げると空から何かが降ってくる。
「わ〜い! まもちゃん見っけ!!」
「ち、ちびうさ!?」
落下してきたちびうさを両手でがっしりと抱えると、衛は目を丸くした。
「今日はバレンタインだからぁ、ちょっと遊びにきちゃった」
ちびうさはテヘヘと舌を出した。
「こんにちは、まもちゃん。お久しぶりです」
ちびうさの頭の上で、ダイアナが挨拶をする。ダイアナが一緒と言うことは、取り敢えず無断で来たわけではないようである。
「チョコ作ったんだー。まもちゃん、あげるね」
どうやらちびうさは、チョコをあげるためだけに二十世紀に来たらしい。ダイアナが恐縮している。
「パパもね、おいしいって言ってくれたよ」
ちびうさは嬉しそうである。料理の腕だけはうさぎに似なかったらしく、うさぎと比べると格段に腕前が違う。不器用なところはよく似ているのだが、味付けはきちんとできているのは流石である。自分の娘ながら、感心してしまう。
未来の自分がおいしいと言ったのだから、ちびうさが作ったチョコは、きっとおいしいのだろうと思う。
「でも、よくここだと分かったな」
「“ショーブ”するときは、殆どここだって、パパとママが言ってた。パパが最初にプロポーズしたのも、ここなんだって」
(そ、そうなのか………)
いつになるのか分からないが、どうやら自分はこの公園でうさぎにプロポーズするらしい。
しかし、未来の自分の行動が分かってしまうと言うのも困りものである。場所を変えてみようかな、などとも思う。
「で、うさぎとは五時の待ち合わせ?」
「いや、四時半だ」
「相変わらずの遅刻魔なのね」
「いつものことだよ………」
「まもちゃん! そう言う甘い考えだから………」
ベンチに座る衛の前で、ちびうさが力説を始めようとしたその時、
「ごめ〜ん、まもちゃん!」
うさぎが走ってやってきた。ちびうさを突き飛ばして、衛の前に陣取る。
「ちょっと、遅れちゃった。待った?」
「三十分ほど」
衛は短く答える。少しばかり怒って見せないと、うさぎの遅刻癖は直らない。
「い、痛いじゃない、うさぎ!!」
「あれ!? ちびうさ、いたの?」
うさぎには衛しか見えていなかったようである。久しぶりの再会だと言うのに、驚いた様子もない。
「あんたねぇ! 久しぶりに娘が会いに来たって言うのに、何か言うことないわけ!?」
「別にあたしに会いに来たわけじゃないんでしょうが………。それに、この間も来たじゃない」
うさぎの反撃に、ちびうさはぐうの音も出ない。確かに、今日はまもちゃんにチョコをあげるためだけに来たのだ。しかも、言われてみれば一週間ほど前にも遊びに来たような気もする。実際には二ヶ月ほどの間が空いているのだが、時間を飛び越えて来ているので、二十世紀では一週間ぶりぐらいでしかない。
「で、ちゃんとチョコは持ってきたの?」
「え!? チョコ!? あ、いや………」
不意にチョコの話を持ち出されたうさぎは、何故か口ごもってしまった。
「まさか、お腹空いたんで、自分で食べちゃったなんてことないでしょうね?」
「ギクっ」
「今、『ギクっ』て、驚いたでしょ、『ギクって』
「いえいえ、そんな………。おほほほほっ」
二年前のバレンタインデーが確かそうだったと、衛は思い出していた。体育ではりきりすぎた為に、お弁当だけじゃ足りなくて、自分にくれるはずだったチョコまで、お昼に食べてしまったことがあった。うさぎもそのことを思い出したのだろう。
「ちょっと、鞄の中見せなさいよ!」
「ああっ! こらっ、ちびうさ!!」
ちびうさがうさぎの鞄をひったくり、中を物色し始めた。
「なんだ、あるじゃない………」
鞄の中から小さな包みを発見したちびうさは、心なしか嬉しそうに言った。
「あ、いや、それはちょっと………」
うさぎの言葉は、どこかぎこちない。
「なによぉ! まさか、まもちゃん以外の人にあげる気じゃないでしょうね?」
「いや、そう言うわけじゃないんだけど………」
「じゃあ、なによ!?」
「いや、ちょっと失敗しちゃって………」
うさぎは俯いてしまった。後でまことから聞いた話なのだが、義理であげた海野が食べて失神したことで、チョコの味付けに失敗していることに気付いたのだそうだ。作り直すのにも時間がなく、市販のものを買うにもお金がなかったことで、まことに相談したらしい。もちろん、まことは例え失敗しているものでも気持ちがこもっていれば、衛には伝わるはずだと助言したとか。うさぎのチョコのマズさが際だってしまうため、うさぎ以外のメンツが衛にチョコをあげるのは、バレンタイン・デー当日は遠慮したとのことだった。一日遅れで、他のメンバーからは貰えた。
「いっぱいチョコ貰ってるみたいだから、あたしがあげなくてもいいよね」
そこで初めて衛は、自分が最悪の状態であることに気付いた。デートの場所に、紙袋一杯のチョコを持ってきてしまっていたのだ。置いてくるべきだったと後悔したが、今となっては後の祭りである。
「わぁ、さっすがまもちゃん! 大学でもモテるんだね!」
ちびうさは素直に感心していたが、うさぎは心中穏やかではないはずだ。ましてや、自分はチョコづくりに失敗してしまっているのである。
目の前のうさぎは笑顔を見せている。作り笑いである。これは、自分にしか分からない。
衛は急に、うさぎが愛おしくなった。自分に対して、精一杯の笑顔を向けているうさぎが、たまらなく愛おしかった。なのに、自分はどうだろう。チョコをたくさん貰ったことで、少しいい気になっていたのではないだろうか。うさぎに対して配慮が足りなかった自分が、無性に恥ずかしかった。
「じゃあ、この失敗作はゴミ箱行きでいいね」
ちびうさがくるりと反転する。手にはうさぎの作ったチョコが握られている。
「ちびうさ!」
衛はちびうさの手から、チョコを取り上げた。
「まもちゃん?」
ちびうさが不思議そうな顔をする。しかし、衛はちびうさを見てはいなかった。真っ直ぐにうさぎに目を向けている。
「ありがとう、うさ」
衛は言うと、包装紙を解いた。ハート形のチョコレートだった。ホワイトチョコで、「LOVE MAMORU」と書いてある。
「まもちゃん、やめなよ! 死んじゃうよ!!」
横でちびうさが止めるが、衛の耳には届いていなかった。衛はチョコを口にした。
「………マズイ」
何とも奇妙な味だった。何をどうすれば、こんな味になるのか知りたいくらいだった。
うさぎの顔が泣いているような、笑っているような、不思議な表情になった。
ちびうさが、そのチョコを引ったくって口にした。
「うげぇぇぇっ。これ、人間の食べ物じゃないよぉぉぉ」
「いいよ、俺が食べるから」
苦しげにのたうち回るちびうさの手から、再びチョコを取り上げた衛は、一気に半分まで食べた。
「うさ、ホントにマズイぞこれ………。この先随分と付き合うんだから、もう少し、料理が上手くなってくれないと、俺の身が保たん」
「まもちゃん、それってもしかして………」
「へ!?」
この時の衛は、自分が言った言葉の意味の重大さに、まだ気が付いていなかった。
Happy Valentine’s Day 2001
皆様にとって、素敵なバレンテイン・デーでありますように。
あとがき バレンタイン・デー記念であります。本当は衛と浅沼、海野の3部作なんですが、間に合いそうにないので、まもちゃん編のみアップすることにしました。浅沼編、海野編を読んでいただくと、浅沼がチョコを貰えなかった訳、海野が号泣している訳が分かるのですが、それはまた次の機会に・・・。(たぶん、来年)
ちなみに衛の友人として登場する風祭 迅(かざまつり じん)は、別の小説の主人公なのです(笑)