忘れられし彼方に


―――まもちゃん! まもちゃん!

 遠くから、誰かが自分を呼んでいるような声が聞こえた。
(誰だろう?)
 忘れてはいけない大事な人の声なのだが、誰の声なのか思い出せない。
「どうしたの? 衛」
 懐かしい声が耳に飛び込んできた。
 衛は声の聞こえた方に顔を向けた。
 女性が立っていた。慈愛に満ちた瞳が自分に向けられていた。
「何でもないよ、ママ!」
 衛は答えて、女性の元に駆け寄っていく。
(何で、“懐かしい”って思ったのかな?)
 先程、自分が一瞬感じた思いは何だったのだろうかと、考えてみた。
 母親の声が懐かしい。そんなはずはない。だって、母親は現に目の前にいる。
「何か、怖いものでも見たの?」
 母親が心配そうに自分の顔を覗き込んでいる。息子の様子がいつもと違うことを、母は敏感に感じ取ったようだった。
「衛は恐がりだからなぁ………」
 大きな手が自分の頭に載せられた。暖かくて大きな手。見上げると、父親の顔があった。
「衛の恐がりは、あなたに似たんじゃないですか」
 母はそう言うと、悪戯っぽく笑った。笑うと右の頬にえくぼができる。衛は母のその笑顔が大好きだった。

―――まもちゃん!

 自分を呼ぶ声が、また聞こえた。振り向いてみたが、誰もいない。
「ママ、誰かがボクを呼んでるよ」
 衛が母に向かって言うと、母は少しだけ寂しそうな顔をした。何でそう言う表情を見せたのか、衛には分からなかった。
「誰もいないぞ、衛。気のせいじゃないか」
 父は大袈裟に背伸びをして周囲を見回してから、衛に視線を落とした。
「しっかりしろよ! お前はもうすぐ、“お兄ちゃん”になるんだからな!」
 父はそう言うと、衛を抱き上げた。
「お兄ちゃん?」
「そうだ。来年には、お前はお兄ちゃんだ」
 笑顔の父。とても嬉しそうな笑顔だった。
「来年、今度は四人でここに来ようね」
 幸せそうな母の声は、まるで歌でも歌っているようだった。
 衛はここで初めて、自分たちが庭園らしきところにいることを知った。美しいバラ園だった。白、黄色、ピンク、そして赤。様々な色のバラが咲き乱れていた。
 自宅の庭にも赤いバラが植えられていた。赤いバラは、母の大好きな花だった。
「ねぇ、あなた。あなたがわたしの二十歳の誕生日に、二十本の赤いバラをプレゼントしてくださったのを、覚えてますか?」
「そんなこと、したっけか?」
「しましたよ!」
 母はそう言うと、右の頬にえくぼをつくった。父は抱いていた衛を降ろすと、照れ隠しに後頭部を掻いた。
「衛があなたに似なければいいけど」
「好きな女性に、バラくらいプレゼントしたっていいじゃないか。なぁ、衛」
 父に同意を求められた衛だったが、よく分からなかった。

―――まもちゃん!

 声がはっきりと耳に聞こえた。空耳や幻聴ではない。
「やっぱり、誰かがボクを呼んでるよ」
 衛は両親の顔を見つめた。両親は今度こそはっきりと、寂しそうな表情を見せた。
「そうね。これ以上、あなたを引き留めることはできないわね」
 母はそう言うと、衛を強く抱きしめた。母の温もりが心地よかった。大好きな母の香りが鼻孔をくすぐった。
「でも、よかったわ。ようやく、あなたとここに来ることができたから………」
 母の笑顔は優しかった。
「これを渡さなくちゃな」
 父が、母に何かを手渡した。掌より、少し大きい平たい箱だった。綺麗な包装紙に包まれ、リボンが結ばれている。
「お誕生日おめでとう。わたしたちからのプレゼントよ」
 母は衛にリボンの結ばれた箱を手渡した。
「開けていい?」
 衛は両親に訊いた。両親は笑顔で肯いた。
 リボンをほどき、包装紙を取り除く。
 プレゼントは時計だった。ムーンフェイズの懐中時計―――。
「やっと、渡すことができたわ」
「ああ」
 両親は衛を見つめて、満足げに微笑んだ。

―――まもちゃん!

「………う、さ………?」
 懐中時計が時を刻み始めた。
 衛は両親の顔を真っ直ぐに見つめた。
「行かなくちゃ、ボクを呼んでいる人がいる」
 衛の言葉を受けて、母はゆっくりと肯いた。
「あなたの大事な人なのね………。衛、人を愛すると言うことは、凄く大切なことよ。でも、もうひとつ、大切なことがあるわ」
「なに?」
「人に愛されること」
 母は衛の頬を撫でた。
「人を愛することも大切だけど、人から愛されることも大事なのよ。たくさんの人に愛されるようになりなさい」
「今の衛は心配いらないようだよ。母さん」
 父は天を見上げながら言った。衛も父と同様に天を見上げたが、済んだ青空が続いているだけで、他には何も見えなかった。
「さぁ、お帰りなさい。あなたが本来いるべき場所に。あなたを待っている人がいるところに………」

「まもちゃん! まもちゃん!!」
 声が聞こえた。愛しい人の声。
 衛はゆっくりと目を開けた。
「………うさ」
 自分の顔を覗き込んでいるうさぎの顔があった。声を掛けると、みるみるうちに目に涙が溢れていく。
「まもちゃ〜〜〜〜〜ん。心配したんだからぁ〜〜〜〜〜」
 うさぎが衛の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
 記憶が甦ってくる。確か、車に()かれそうになった子供を助けて、そして―――。
「頭を強く打ったようですけど、脳波には異常ないようです」
 亜美が機転を効かして、衛に説明した。
(そういうことか………)
 衛は納得した。子供を助けた拍子に頭を強く打ち、病院に担ぎ込まれたようだ。
 亜美の他にはレイがいた。まことがいた。美奈子がいた。
 ほたるやせつな、浅沼の姿も見えた。元基と宇奈月の姿も見える。
 みんな自分の身を案じて、駆け付けてくれたのだろう。
「俺には、こんなにも家族がいたんだな………」
 天涯孤独の身だと感じていたのだが、どうやらそれは大きな間違いだったようだ。
 六歳の自分の誕生日に、行くはずだった場所。手渡されるはずだったプレゼント。そして、伝えられるはずだった両親の想い―――。
「そうだよ。みんな、まもちゃんの家族だよ」
 泣きじゃくっていたうさぎが顔を上げた。にっこりと微笑んだ。
 右の頬に、小さなえくぼができていた。




 半年前に一部の方(五名様限定 笑)だけにお配りした短編です。serenity×serenityさんから頂いたポエムが、ちょうど同じような設定であったので、いい機会だと思いHP上でも公開することにしました。
                                            2002 3.30