ある日のほたるちゃん
ほたるは目の前の牛乳を見つめて、固まっていた。
ついうっかりメニューをよく確認せず、クラスメイトの早川まるみがランチを頼んだので、自分も同じものを注文してしまった。
それが、そもそもの間違いだった。
本日のT・A女学院の学生食堂の日替わりランチは、若鶏のクリームシチューにカレー味の野菜の炒め物がメインディッシュ。それにパンとデザートのオレンジが付いている。そこまではよかった。しかし、渡されたトレイの上に、三角パックの「美味しい牛乳」が置かれていたのである。
このメニューで何故に牛乳!?
ほたるは仰天した。クリームシチューがあるのだから、牛乳ではなくて果汁100%のジュースにしてもらいたい。デザートにオレンジが付いているから、リンゴジュースかなんかがよかったかも〜。と思うのだが、何故に牛乳が付いてくるのか!?
ここは天下のお嬢様学校T・A女学院である。問答無用で給食に牛乳が付いてくる区立の中学校とは訳が違う。落ちたら十番中学とせつなから言われていたから、ほたるは必死に勉強した。T・A女学院に進学することができれば、牛乳と縁が切れるかもしれない。そう思ったから、ほたるは必死だった。そして、晴れてこの春T・A女学院に入学できたのである。
昨日までは学食で、牛乳に遭遇したことはない。だから、油断していたのだ。
迂闊だった。
そう思ったが、後の祭りだった。頼んでしまったものは、もうどうすることもできない。
ほたるは言葉少なにトレイを持ち、テーブルへと移動する。
「ほ、ほたるちゃん? なんか、すっごく危険なオーラを感じるんだけど………」
ほたるの放つ異様なオーラに、さすがのまるみも気付いた。
隅の方で食事をしていたレイも、何事かとこちらに視線を向ける有様だ。
「そう? 気のせいだと思うよ〜」
見るからに作り笑いと分かる笑みを返し、ほたるはテーブルに付いた。まるみはほたるの向かいに腰を下ろす。
なるべく牛乳を見ないようにして食を進め、ついに牛乳だけが残った。
その牛乳を見つめたまま、ほたるは二分程固まったいるのだ。
「もしも〜し、ほたるちゃ〜ん。どうしたのぉ?」
まるみのほたるの目の前で右手をヒラヒラさせるが、既にほたるには牛乳以外何も見えていなかった。
牛乳―――それは、ほたるがこの世で一番苦手とするものである。この際はっきり言ってしまうと、大嫌いなのである。小さい頃から、どうしても牛乳だけは飲めなかった。
過去、一度だけ飲んだことがある。三歳の頃、冷蔵庫にあった白い液体を何の気なしに飲んでしまったのが運の尽き。飲んでいる途中に気が遠くなって、そのまま意識を失ってしまった。
それが牛乳だった………と思う。定かではないのは、そのことについて、両親はどちらも触れてくれなかったからだ。だからほたるは、その白い液体が牛乳であったと決めつけているだけなのである。
しかし、その悲惨な幼児体験のせいで、ほたるは牛乳が大の苦手となってしまった。でも何故か、牛乳を使用しているだろうクリームシューも、チーズも全然平気だった。ヨーグルトももちろんオッケー。カルピスは大好物である。牛乳の形をしていて、牛乳の色をしていて、牛乳の味がして、牛乳の匂いがして、牛乳と書かれているものがダメなのである。
「な、なんかやっぱ、凄いオーラを感じるんですケド………」
ほたるの真剣そのものの顔を見て、まるみはゴクリと唾を飲み込んだ。これ程までに険しい表情のほたるを、まるみは初めて見た。
遠くからこちらを眺めたレイも、思わず眉を顰める程だ。
ほたるが固まってから、五分が経過していた。今やほたるの周りのテーブルには誰もいない。ほたるの放つ異様なオーラが、何者をも近くに寄せ付けないのである。まるみだけがこの場に取り残されてしまっていた。
残るは牛乳ただひとつ。
(牛乳なんて、ギャラクシアと比べたら月とスッポン。臆する相手じゃないわ)
しかし、手を伸ばそうにも体は拒否反応を示している。
(何をしているの、ほたる。あたしは沈黙の戦士セーラーサターンよ。確かに、牛乳を見つめて「沈黙」してるけど。って、自分で自分を突っ込んでどうするのよ!)
ようやく右手が、テーブルの上に乗った。この次は牛乳に向けて手を伸ばす番だ。
(がんばれ。がんばるのよ、ほたる。あたしは破滅と誕生の戦士セーラーサターンよ。牛乳を飲んで「破滅」しても、その次には「再生」が………って、そんなこと言ってる場合じゃなくって!)
ほたるの心の葛藤は、プラズマを伴ったオーラとなっていた。
レイはと言うと、「悪霊退散」のお札を自分の周囲に張り巡らして結界を張り、悠々と食事を取っている。さすがは先輩セーラー戦士である。このくらいでは動じない。
(残してしまってはいけないのよ、ほたる。食事を残してしまったことがシスターにバレたら、反省室でムチ打ちの刑なのよ!)
そうなのである。T・A女学院の校則は厳しい。「学食で注文したメニューに対しては、自分が責任を持って食さねばならない」と、学生証にも記されているのだ。残してしまったら、校則違反になるのである。校則を犯した場合は、反省室と呼ばれる密室で、シスターによってお尻をムチで叩かれるのである。
反省室に入った者は、生きて出ることができない。とまで言われている恐ろしい場所なのだ。
(反省室でゴーモンに合うのは嫌よ! がんばるのよ、ほたる! 反省室で死ぬのと、牛乳を飲んで死ぬのとどっちがいいの!? って、どっちもヤだけど………)
ひとり漫才を心の中でやり始めてから、既に二分経過。のんびりしていたらお昼休みも終わってしまう。午後の授業に遅れたら、これまた反省室行きである。
ようやく少し右手を伸ばせた。牛乳まではあと、三十センチである。
腕は必死に抵抗し、牛乳まで辿り着けないように意地を張る。だが、自分の右腕如きに負けるわけにはいかない。
「ぐ、ぐぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜っっっ!!」
奇声を発すると、ほたるは右腕に力を込めた。また僅かに右腕が伸びる。
牛乳まであと、二十五センチ。
「ほ、ほたるちゃん。あ、あたしちょっとお手洗い」
まるみはようやく腰を上げ、すたこらさっさと食堂を逃げ出してしまった。いや、本人の言葉を借りるならば、食堂から一番離れているお手洗いへと向かった、のである。決して逃げ出したわけではない。と、弁護しておこう。
「にゅぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜っっっ!!」
最早何の鳴き声か分からないような声を発して、ほたるは振るえる腕を牛乳に向かって伸ばす。ほたるの体から、プラズマが飛び散る。
レイは澄ました表情で、デザートのオレンジを食べている。今気付いたのだが、レイもほたると同じく日替わりランチを食べていたらしい。
牛乳まで、あと二十センチ。
「はうっ!!」
ピキーーーーーッッッ。
右腕が吊ってしまった。右腕から右脇腹に掛けて、かなりの広範囲である。無理に力を入れたせいである。
「はぎゅぅぅぅぅぅっっっっ」
呼吸が止まりそうになる。
(な、なんの! まだ左腕があるわ!!)
かつてない強敵に、ほたるも闘志を剥き出しにする。
ちなみに、お昼休み終了まであと五分。
食事を無事終えたレイは、口元をナプキンで丁寧に拭っている。
ほたるの左腕は、右腕以上に手強かった。やっとの思いでテーブルの上まで移動させたが、そこから先へはテコでも動かない。
完全にストライキを起こしている。
「動け左腕ぇぇぇ!!」
食堂が震えんばかりの声を張り上げ、ほたるは左腕を牛乳に向かって伸ばした。
腕が伸びる。牛乳へ向かって。
ほたるの気合い勝ちかと思われたが、気合いが入りすぎた。と、言うより、ほたるの左腕は別の意志を持ち、牛乳を「敵」と判断したのだ。
ボボ〜〜〜ン!!
三角の牛乳パックが、凄まじい勢いで破裂した。牛乳が周囲に飛び散る。
ほたるは別の意味で固まってしまった。
レイの姿は既に食堂にない。残念ながら、誰もほたるをフォローしてくれない。と言うか、レイははなからフォローする気などなかったように感じられる。
左腕を伸ばし、破裂した牛乳を浴びてしまったほたるは、固まったまま午後の授業の始業ベルを聞いていた。
その後、シスターによって反省室に連行されたほたるの運命を知るものは、誰もいない。
え〜〜〜。ほんっっっっっっっとに久しぶりの短編です。
最近、なかなかネタが浮かばなくって(^^ゞ
原作では牛乳が嫌いというほたるちゃんの設定をもとに、このお話を考えました。
最近の給食でも、牛乳出るんでしょうかね???